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威光 (会話 | 投稿記録)
'伯権'の可能性が高いは高いんですが、字に関する記録は残っていません。
m 彼の戦死について、激怒の理由を追記
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しかし曹操陣営の中で漢中は遠く孤立しており<ref>「張既伝」「和洽伝」</ref>、やがて巴郡を奪回され、建安23年([[218年]])には劉備軍が陽安関(陽平関)に達するなど、徐々に追い詰められていった。
 
建安24年(219年)正月、劉備の部隊はついに定軍山の本営にまで至り、夏侯淵は自らこれと対峙した。劉備が夜間に攻撃を開始すると、夏侯淵は張郃に東方の陣営を守らせ、自分は南方の陣営を守ったが、張郃が苦戦したため自分の兵の半分を援軍に向かわせた。劉備は[[法正]]の策に従い、夏侯淵の本営より15里離れた鹿角(逆茂木を焼き払った。夏侯淵は兵士400人を率いて自らこれを修復にあたったが、[[黄忠]]は高所に昇り背後から夏侯淵を攻撃した。夏侯淵は黄忠の軍を迂回することに成功したが、背後からの攻撃に失敗して戦死した([[定軍山の戦い]])、[[張飛]]の夫人は夏侯淵の戦死を知ると、願い出て彼を埋葬した。
 
夏侯淵が宋建を斬った際には曹操は「虎の如く関右([[潼関]]の西)を駆け、向かうところ敵無し」とこれを賞賛した。一方で曹操は、夏侯淵が戦勝していても尚「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは常に知略を用いよ」と、その増長を戒めていた<ref>『三国志集解』によれば、夏侯淵戦死の報を受けた曹操は「夏侯淵はもともと戦の駆け引きを得意としておらず、味方から『白地将軍』と呼ばれていた。司令官たるもの自ら戦ってはいけないのに、ましてや鹿角(逆茂木を修繕するとは」と嘆いた。</ref>。[[諡号|諡]]は'''愍侯'''。
 
[[正始 (魏)|正始]]4年([[243年]])秋7月、[[曹芳]](斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には夏侯淵も含まれている(「斉王紀」)。
 
== 『三国志演義』における夏侯淵 ==
小説『[[三国志演義]]』では、曹操の親族、夏侯惇の弟として早くから登場し、剛直で弓術に長けた猛将として描写されている。汝南の劉備攻撃では劉備に味方した黄巾残党の[[キョウ都|龔都]]を討ち取っている。さらに銅雀台落成の余興では、的に当たった4本の矢の真ん中を射抜く腕前を披露した。曹操は、定軍山での彼の戦死を聞いて嘆き悲しみ、そして鹿角の補修に自ら出かけるなど、軽率な行動に激怒している。
 
==家系図==