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== 生涯 ==
[[河内郡 (河南省)|河内郡]][[温県]]の人。[[西晋]]の琅邪恭王[[司馬覲]]の子として[[洛陽市|洛陽]]に生まれる。生母は[[夏侯光姫]]([[夏侯威]]の孫娘)。弟に東安王[[司馬渾]]がいる。15歳で琅邪王に封じられる。[[建武 (西晋)|建武]]元年、当時権勢を誇っていた成都王[[司馬穎]]の討伐に参戦するが失敗し恵帝と共に鄴で司馬穎の監視下に置かれた。保身のために鄴を脱出し洛陽で母に会い共に封国の[[琅邪郡|琅邪]]に戻った。途中、[[黄河]]の渡し場を渡るときに見とがめられて留置されそうになった。司馬穎が一族を手元にとどめて監視し、地方に自由に去ることを禁じていたからである。そこに遅れてやってきた従者が追いついて司馬睿の馬を鞭でこづきながら「舎長!政府は貴人の通行を禁じているそうだが、貴様も止められたのか」と言って笑って見せた。その様子を見て、役人は通行を許した<ref>『晋書』巻六「元帝紀」</ref><ref>[[宮崎市定]] 『大唐帝国 <small>中国の中世</small>』 [[中公文庫]] ISBN 4122015464、144p</ref>。
 
司馬穎が東海王[[司馬越]]に殺害された直後に、司馬越により[[永嘉 (晋)|永嘉]]元年に安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられる。その頃朝廷の衰退を予測した近侍の[[王導]]の献策に従い、[[建康 (都城)|建業]]に赴く。その際に賢人を厚くもてなし江東をよく平定したといわれている。