「ボラボラ島」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
JapaneseA (会話 | 投稿記録)
下位カテゴリがあるので
「歴史」の追加
1行目:
[[File:Bora Bora ISS006.jpg|thumb|衛星写真]]
[[File:Societe isl BoraBora.PNG|thumb|ソシエテ諸島とボラボラ島の位置関係]]
'''ボラボラ島'''(ボラボラとう、''Bora[[タヒチ語]]:Bora Bora'')Bora)は、[[フランス領ポリネシア]]の[[ソシエテ諸島]]にある[[島]]である。
 
== 概要 ==
首都[[パペーテ]]がある[[タヒチ島]]から北西約260kmに位置しており、「太平洋の真珠」と呼ばれるほどフランス領ポリネシアの中でも最も美しいとされる。そのため、フランス領ポリネシアに旅行する観光客の多くがボラボラ島を訪れる。
 
ボラボラ島は、1周約30kmの本島と、その周囲を約40kmのリーフ(岩礁)が囲んでいる。面積約36km{{sup|2}}、2000
[[2017現在]]の人口は約45001万605人。
 
中心街は本島西側に位置するヴァイタペ。島の中央に[[オテマヌ山]](727m)がそびえ、周辺のモツ(タヒチ語で「島・小島」の意。珊瑚礁による岩礁)からその姿を一望できる。
15 ⟶ 16行目:
 
ボラボラ島へは、タヒチ島の[[ファアア国際空港]]から[[ボラボラ空港]]へ[[エアタヒチ]]が空路の定期便を毎日運行しており、直行便で50分、他島経由便で最大120分。ボラボラ空港は島北西側のリーフ、モツ・ムテ上に位置しており、本島及び島内各ホテルへは空港からボートで渡ることになる。 本島のヴァイタペへは、エアタヒチが飛行機の発着に合わせてシャトルボートを運行している。また、空港内に主要ホテルのカウンターが設置されており、ホテルに宿泊する場合は空港~ホテル直行の送迎シャトルボートを利用する事が多い。
 
==歴史==
かつて、ボラ・ボラ島ではFaanuiとVaiotahaをそれぞれ中心地とする2つの集団が争っていた。
また、宗教権力では[[ライアテア島]]と争っていた。
ある時期までは、ボラ・ボラ島とライアテア島は共同で他の[[リーワード諸島 (ソシエテ諸島)|リーワード諸島]]の島々に政治的・宗教的影響力を行使していた。
しかし、ライアテア島が圧倒的な宗教的権威を、ボラ・ボラ島が高い軍事力を持った事で、島同士の争いだけでなく島内の内戦も起きるようになった。
 
[[1722年]]、[[オランダ]]の[[ヤーコプ・ロッヘフェーン]]がヨーロッパ人として初めてボラ・ボラ島について述べた<ref>''Tahiti et ses archipels'' par Pierre-Yves Toullelan, éditions Karthala, 1991, {{ISBN|2-86537-291-X}}, p. 61.</ref>。
 
[[18世紀]]の大首長、プニは島を統一し、続いて[[タハア島]]を征服した。
 
[[1763年]]、3年間の戦争の結果、プニはライアテア島を征服した。
 
[[1769年]][[7月29日]]、[[ジェームズ・クック]]が両島に近付いた際も、プニ率いるボラ・ボラ島軍が支配していた<ref name="Anne">{{cite book|last1=Salmond|first1=Anne|title=Aphrodite's Island|date=2010|publisher=University of California Press|location=Berkeley|isbn=9780520261143|pages=36,218,286}}</ref>。
 
[[1777年]]、クックが初上陸した。
 
[[1778年]]、プニが崩御し、甥の{{仮リンク|タポア1世|en|Tapoa I}}が3島の支配者となった。
彼はライアテア島に首都を移した。
 
[[1812年]]、タポア1世が崩御した。
 
[[1820年]]、{{仮リンク|ロンドン伝道会|en|London Missionary Society}}が上陸した。
 
[[File:Flag of the Kingdom of Bora Bora (1837-1842).svg|thumb|ボラ・ボラ王国国旗(1837~1842年)]]
[[19世紀]]前半にボラ・ボラ島を統一したボラ・ボラ王国が成立した。
 
[[1847年]]、Jarnac会議の結果、[[フランス]][[7月王政]]と[[イギリス帝国]]がボラ・ボラ王国を承認した。
同様に独立していた[[ソシエテ諸島]]の国には、{{仮リンク|タヒチ王国|en|Kingdom of Tahiti}}や[[フアヒネ島]]、ライアテア島が有った。
これらの国は全て同じ[[タヒチ語]]と文化を共有し、王族は結婚を通して血縁で結ばれていた。
ボラ・ボラ王国は本島の他に[[ツパイ島]]や[[マウピティ島]]、[[マウピハア島]]、[[モツ・オネ島]]、[[マヌアエ島 (リーワード諸島)|マヌアエ島]]を支配していた。
 
[[1888年]]、ボラ・ボラ王国はフランスに併合され、植民地となった。
 
[[1890年]]、ロンドン伝道会が[[プロテスタント]]教会を建設した。
 
[[File:Queen and maids of honor, Bora Bora.jpg|テリーマエヴァルア3世と従者達(1899年頃)|thumb]]
[[1895年]]、最後の女王の{{仮リンク|テリーマエヴァルア3世|en|Teriimaevarua III}}が退位させられた<ref name="Borabora">{{cite web |url= http://www.royalark.net/Tahiti/borabora.htm |title=Bora Bora: The Tapoa Dynasty Genealogy |author=Christopher Buyers |accessdate=2012-02-25 |work= Royal Ark web site }}</ref><ref>{{cite web |url= http://www.worldstatesmen.org/Fr_Polynesia.html |title=French Polynesia |author=Ben Cahoon |year=2000 |accessdate=2012-02-25 |work= WorldStatesman.org }}</ref>。
 
[[第二次世界大戦]]では、[[アメリカ合衆国]]がボラ・ボラ島を南太平洋地区の要衝とした。
9隻の軍艦と2万tの備蓄、7000人の兵士が置かれたこの島は、Bobcat作戦の中心となった。
幸運な事に、この島では一度も戦闘が起きなかった。
 
[[1946年]][[6月2日]]、ボラ・ボラ要塞は正式に閉鎖された。
 
[[1960年]]に[[タヒチ]]の[[パペーテ]]に[[ファアア国際空港]]が開設するまでは、アメリカ軍が残したボラ・ボラ空港が、大型機が利用出来ないながらも[[フランス領ポリネシア]]唯一の国際空港だった<ref>{{cite web |title=Contenu et images Notre histoire |language=fr |trans-title= Content and Images Our Story |url=http://groupe.opt.pf/le-groupe/histoire/ |publisher=l'Office des Postes et des Télécommunications [Office of Post and Telecommunications] |accessdate=18 April 2011 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130413124434/http://groupe.opt.pf/le-groupe/histoire/ |archivedate=13 April 2013 |df=dmy-all}}</ref>。
 
== 島内風景 ==