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[[ファイル:Zentralfriedhof Vienna - Boltzmann.JPG|thumb|right|200px|ウィーンにあるボルツマンの墓にはエントロピーの公式が刻まれている。]]
'''ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン'''(Ludwig Eduard Boltzmann, [[1844年]][[2月20日]] - [[1906年]][[9月5日]])は[[オーストリア]]・[[ウィーン]]出身の[[物理学者]]、[[哲学者]]で[[ウィーン大学]]教授。[[統計力学]]の端緒を開いた功績のほか、[[電磁気学]]、[[熱力学]]、[[数学]]の研究で知られる。
 
==生涯==
ボルツマンは1844年、ウィーン生まれた。父は税務官であった。少年時代には[[アントン・ブルックナー]]から[[ピアノ]]の手ほどきを受け、生涯にわたりピアノ演奏を好んだ。
 
[[1866年]]にウィーン大学で学位を取得、翌年[[ヨーゼフ・シュテファン]]の助手となり[[1869年]]に[[グラーツ大学]]の数理物理学助教授に就任した。
 
[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]らに続いて[[気体分子運動論]]を研究し、さらに[[分子]]の[[力学]]的解析から熱力学的な性質を説明する統計力学を創始した。その過程で、[[1872年]]に[[H定理]]により熱現象の不可逆性([[エントロピー]]の増大)を証明した (L. Boltzmann: Wien Ber. '''66''', 275 (1872))。
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[[1873年]]にウィーン大学数学教授、[[1876年]]にはグラーツ大学実験物理学教授に就任。
 
1884年、[[ヨーゼフ・シュテファン]]が実験的に明らかにした[[黒体]]放射が温度の4乗に比例するという法則に、理論的な証明を与えた (L. Boltzmann: Ann Phys. '''22''', 31,291 (1884))。この法則は[[シュテファン=ボルツマンの法則]]として知られている。同年、妻ヘンリエッテと結婚した
 
[[1887年]]、グラーツ大学学長となる。その後も[[1890年]]に[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]理論物理学教授、1894年にウィーン大学理論物理学教授、[[1900年]]に[[ライプツィヒ大学]]教授、1902年に再びウィーン大学理論物理学教授の職に就く。
 
[[ジョン・ドルトン]]が提唱した[[原子論]]は当時の科学会では完全に受け入れられておらず、原子論の立場をとるボルツマンは、[[実証主義]]の立場から原子の存在を否定する[[エルンスト・マッハ]]や[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]らと対立し、激しい論争を繰り広げた。そのためもあって晩年のボルツマンは[[双極性障害]]に苦しみ、アドリア海に面した保養地[[ドゥイーノ]](現在は[[イタリア]]・[[フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州]]の一部。)で静養中家族が目を離したすきに自ら首を吊って[[自殺]]した。享年62。ボルツマンの墓はウィーン中央墓地の14C区に葬られている。その墓石には「S=k. log W」の刻印がある。
 
== 評価 ==
ボルツマンは、[[クラウジウス]]が1850年の論文において純粋にマクロ的な概念として[[カルノーサイクル]]上の関数として発見した[[エントロピー]]を、そのおよそ50年後に[[統計力学]]の立場から見直し、エントロピーを原子の分布の仕方の尺度として再定義した事になる。今日、エントロピーの解説として、啓蒙書などで広く語られる「デタラメさの尺度」と言うエントロピーの通俗的概念は、エントロピーの本来の定義ではなく、ボルツマンが上記の式によって証明した「[[定理]]」である事を認識する必要が有る。イギリスの科学史家[[ブロノフスキ]]は、BBCが1970年代に制作した科学史番組『人間の時代』において、こうしたボルツマンの科学史上の役割を取り上げ、ボルツマンこそは、原子を実在の対象と考えた最初の科学者であったと述べ、ボルツマンが科学史において果たした役割を称賛している。
 
== 関連項目 ==