「襄公 (晋)」の版間の差分

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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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== 概要 ==
即位後間もない[[紀元前627年]]、正卿[[先軫]]の献策で[[殽の戦い]]([[:zh:殽之戰|zh]])が起こった。[[孟明視]]([[:zh:孟明視|zh]])<ref>姓は百里、名は視、字は孟明。[[百里奚]]の子。</ref>率いる[[秦]]軍が攻め込んできたが、果敢な襄公は白い喪服を墨で黒く染めて出陣し、殽の地でこれを打ち破った。喪服を染めた理由はよく分からないが、父の喪中で喪服を脱ぐわけには行かないが、白い喪服のまま出陣するのは不吉であると思って黒く染めたものと思われる<ref>喪服に黒服を着る習慣はここから発生したという話があるが、俗説であり信用にたりない。その後も長きにわたって、中国や日本では喪服は白であり、それが黒になるのは近代以降である。</ref>。孟明視、[[西乞術]]([[:zh:西乞术|zh]])<ref>名は術、字は西乞。</ref>、[[白乙丙]]([[:zh:白乙丙|zh]])<ref>姓は蹇、名は丙、字は白乙。[[蹇叔]]の子。</ref>という敵方三将を捕虜として捉えたが、母の諫言に従って逃がしたところ、[[先軫]]は大いに怒った。この戦いが秦晋の戦争の始まりであったと同時に、後の[[三晋]]([[:zh:三家分晋|zh]])の遠因ともなった。彼が在位7年で亡くなると子の[[霊公 (晋)|太子夷皋]]が後を継いだ。これが霊公である。襄公にはその他に桓叔捷([[悼公 (晋)|悼公]]の祖父)という公子もいた
 
[[紀元前626年]]、[[彭衙の戦い]]。