「三輪田勝利」の版間の差分
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== 経歴 ==
{{出典の明記|section=1|date=2018年7月3日 (火) 12:04 (UTC)}}
=== プロ入り前 ===
[[1945年]]に[[愛知県]]で生まれる。[[中京大学附属中京高等学校|中京商]]では2年生の時、[[1962年]]の[[第34回選抜高等学校野球大会|春]][[第44回全国高等学校野球選手権大会|夏]]の甲子園に[[林俊宏|林俊彦]]の控え投手として出場、いずれも準決勝で敗退する。夏の大会の準々決勝では初めてリリーフとして登板している。翌[[1963年]]の春季近畿大会にエースとして出場。決勝で[[名古屋国際中学校・高等学校|名商大付]]を降し優勝を飾る。[[第45回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]では3回戦に進むが[[横浜中学校・高等学校|横浜高]]に敗れる。この大会では1回戦で、後に大学で同期となる[[大分県立津久見高等学校|津久見高]]の[[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]投手に投げ勝っている。その後、高校日本代表として[[池永正明]]、[[和田徹]]らとともにハワイに遠征した。高校の同期に[[高井諭]]、[[下村栄二]]がいる。
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=== 1998年のドラフト、突然の死 ===
[[1998年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1998年のドラフト会議]]において、オリックス・ブルーウェーブは[[新垣渚]]([[沖縄県立沖縄水産高等学校]])を1位指名したが、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]と重複し、抽選で交渉権を獲得した。ところが、新垣は「ダイエー以外だったら([[九州共立大学]]へ)進学する」と発言し、オリックスへの入団拒否を表明した。三輪田は球団上層部に「新垣宅へ行ったものの(面会を)断られた」と報告したが、上層部
この事件を週刊誌が数多く記事にし、その中には「ドラフト指名選手や関係者への口利きをする」などと自称する[[エージェント|代理人]]の存在や、ドラフト指名選手・関係者への口利きを口実にした詐欺行為の存在なども噂として書かれ、三輪田はこれに騙されたのではないかとする報道も見られた。各関係方面からの調査も行われたが、真相は定かではない。
当時、オリックス球団社長だった[[井箟重慶]]は、三輪田の自殺を受けての記者会見で「
=== 死後 ===
新垣は三輪田の死後、球団本部長の[[矢野清]]と面会した。自らがオリックス入団を拒否し、面会を拒否したことで三輪田が自ら命を絶ったことに責任を感じ、「(野球を辞めるべきか)悩んだ時期もあった」という。また、三輪田夫人から「(三輪田の死は)あなた(新垣)のせいではない。これからも頑張って」と激励され
またイチローこと鈴木一朗は幼少期より地元愛知県の[[中日ドラゴンズ]]入団を熱望していたが、当時中日の監督だった[[星野仙一]]やスカウトだった[[池田英俊]]<ref>星野は閉幕直前に辞意を表明し、ドラフト会議時点では[[高木守道]]に監督が交代していた。</ref>が投手としての評価から獲得に消極的だったことや、三輪田の誠意・説得もありオリックス入団を決めた。生前、両者は上下関係を弁えた上で互いの家族を交えたプライベートの交流もあった。三輪田の自殺を知ったイチローは涙し、告別式では三輪田の棺に自身愛用のバットを納め、渡米後も帰国時には三輪田家の[[墓]]参りを欠かさない。
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