「篠原長重 (三好家臣)」の版間の差分

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[[天文 (元号)|天文]]24年([[1555年]])、[[篠原長房]]の子として誕生。[[篠原氏]]は代々、阿波[[守護代]]の三好氏に仕え、長重の父・長房の代には若年であった三好家[[家長|当主]]・[[三好長治]]とその弟である[[讃岐国]]の[[十河存保]]を補佐し、[[阿波国|阿波]]・[[讃岐国|讃岐]]両国の軍勢を率いてしばしば[[畿内]]へ出兵した。長重は父と共に各地の合戦に参加し、「'''手柄中々申しつくしがたし'''」と賞された<ref>『みよしき』</ref>。
 
[[元亀]]元年([[1570年]])10月、長重は[[摂津国]]に上陸し([[野田城・福島城の戦い]])、[[おじ|叔父]]・[[篠原自遁]]と連署で[[本興寺 (尼崎市)|本興寺]]に禁制を発給し<ref name="wakamatsu"/>、[[元亀]]2年([[1571年]])[[正月]]には四国に戻り讃岐の[[西光寺 (阿波市)|西光寺]]に、その後、[[畿内]]に戻り元亀3年([[1572年]])12月には[[山城国]]大山崎の[[離宮八幡宮]]にそれぞれ禁制を発給した<ref name="wakamatsu"/>。
 
しかし、父・長房と、自遁・長治が不和となり、元亀4年([[1573年]])5月、長治と[[十河存保]]の軍勢が長房の居城である[[上桜城]]に押し寄せた([[上桜城の戦い]])。約2か月の籠城戦の後、長房と長重は、同年7月16日早朝、十河存保の陣を急襲したが敗北し、長重は讃岐[[香西氏]]の家臣・[[植松資久]]に討ち取られた<ref>『香西史』第九編 第八章 第八節 植松久助</ref>。享年19<ref>『阿波志』</ref>。