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== 人物 ==
{{スポーツ選手の出典明記|人物像|date=2012年2月|section=1}}
 
=== エピソード ===
人柄は温厚で腰が低く、誰に対しても礼儀正しく接するため、年俸交渉でも球団と揉めることがほとんどなかった。球界を代表する打者として毎年好成績を残し、名球会入りするほどの選手であったにも関わらず、現役時代の推定最高年俸は5,200万円([[1988年]]・当時のヤクルト球団の日本人最高年俸)であった。
 
現役時代の監督でありヤクルトを日本一に導いた[[広岡達朗]]を尊敬しており、広岡が球団社長と対立し監督を辞めた時、「どうして辞めてしまうんですか?」と泣きながら電話してきた唯一の主力選手といわれる。野村の退任を受けてヤクルトの監督に就任した時も、「果たして僕に監督ができるのでしょうか」と広岡に相談している。
 
現役引退を発表した記者会見では終始涙ながらの会見となり、発言内容よりも号泣する若松にその純粋な人柄が強く映し出され、非常に印象深いものとなった。また当時「[[FNNスーパータイム]]」の週末版スポーツコーナーを担当していた[[有賀さつき]](当時フジテレビアナウンサー)からインタビューを受けて、既に引退が決まっていたにもかかわらず「来年も頑張ってください」と声を掛けられてしまった。
 
現役引退後にヤクルトの打撃コーチや二軍監督を務めた頃は、生真面目な性格のためか選手やチームのことを考えすぎて[[ストレス (生体)|ストレス]]で[[胃]]を壊したり、[[腰痛]]に悩まされることも多かった。一軍監督時代には、シーズン終盤になってようやく当年初の一軍昇格を果たした選手に対して「遅くなってごめんな」と声を掛けてしまい、一軍チーフコーチの[[渡辺進]]から「もっと毅然と接しないと」と窘められたこともあった。また監督時代には自前の戦力が中心ながらその隙間を埋めるような形でトレードを行っていたが、いずれも球団主導で、若松自身は監督退任後に「私は誰も、チームからは出したくなかった」と明らかにしている<ref name="special-24">SEGA「プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2」スペシャルインタビュー [http://www.yakyutsuku-online.com/library/special/vol24/]。</ref>。
 
監督としては各部門ごとに責任者を置いて、その場をそれぞれに一任するマネジメントを行っていた。選手の自主性も重んじており、若松がヤクルトの監督であったころはベテラン選手も練習メニューが自由であった。古田敦也はこれについて、プロ野球選手が自分の立場を守るのは自己責任であると考えさせられた、という趣旨のコメントを自著に残している<ref>古田敦也『優柔決断のすすめ』(2009年、PHP新書)pp.142-145 ISBN 4569774210</ref>。
 
純朴ゆえに口下手でもあり、若松と行動を共にすることの多かった現ヤクルト監督の[[小川淳司]]<ref>若松の監督在任中は二軍監督を務めた。</ref>によれば、イベント等でのあいさつが終わる度に「今のでよかったか? オレ、変なこと言ってなかったか」と尋ねられていたという<ref>{{Cite news |url=http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20101013/bbl1010131620009-n1.htm |title=ヤクルト小川監督を襲う代行の利かない“スピーチ地獄” |newspaper=ZAKZAK |publisher=産経デジタル |date=2010-10-13 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20101016045230/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20101013/bbl1010131620009-n1.htm |archivedate=2010年10月16日}}</ref> 。また、現役時代、1978年にMVPを獲得した際には、「タイトルのない僕でいいのか」と発言している
 
若松の口下手で実直な人柄を最も印象づけたのが、2001年10月に監督として初のリーグ優勝を達成した際のインタビューで発した「ファンの皆様、本当にあの〜あの…'''おめでとうございます'''」という一言(本当は「ファンの皆様、本当にありがとうございます」と言うつもりだった)であるが、むしろ場内は大爆笑に包まれて和やかなムードになり、同年の[[流行語大賞]]の語録賞に選ばれた(2015年のヤクルトのリーグおよびクライマックスシリーズ優勝時、2001年優勝メンバーでもあった監督の[[真中満]]はインタビューの際にこの言葉を再度使用した)。さらにシーズン本拠地最終戦でのファンへの挨拶では「一戦、一戦、頑張りますので、オールスターでも、いや、日本シリーズでも皆様のご声援よろしくお願いします」と言ってしまい、またしても会場は大ウケとなった。そして日本シリーズ優勝を達成した際のインタビューでは「本当にファンの皆様、改めまして、日本一、おめでとうございます!!」と堂々とファンに叫んだ(先のリーグ優勝の後に「いや、元々からおめでとうございますって言おうと思ってたんだよ」と語っていたが、今度は緊張せずにしゃべることができたという)。
 
2001年のリーグ優勝および日本シリーズ優勝の胴上げの際に、[[石井一久]]が若松の足を高く持ち上げたため、体重が軽い若松は空中で一回転してしまった<ref>『2002ヤクルトスワローズファンブック』(ヤクルト球団、2002年)2~3頁</ref>。若松は選手時代から腰痛に悩まされていたが、この宙返り以後痛みがひどくなり、監督としての最終試合前に退任セレモニーで選手達による胴上げが企画されているのを知ると、腰痛を理由により固辞する旨を公言していた。しかし、セレモニー終了後、次期監督の古田敦也から説得され胴上げを受け入れた。なお、この時の胴上げは腰に負担をかけないように低く、体が回転しない様に足首を押さえながらの胴上げだった。
 
普段から物静かで人前で怒りをあらわにするようなことは滅多になく、判定に不服で抗議に出ようとした際に渡辺進コーチにベルトを引っ張られてベンチに下がることもあったが、唯一[[2004年]][[6月9日]]の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]戦では7回に横浜・[[佐伯貴弘]]の一塁ゴロの判定に激怒して一塁塁審を突き飛ばし、若松にとって野球人生唯一の退場処分を受けた。
 
その一方で、普段の実直で真面目な性格ゆえにあまり目立たないものの冗談好きで茶目っ気のある部分も持ち合わせており、優勝した2001年オフのファン感謝デーではゲストで登場した[[間寛平]]のリクエストに応じて、監督としての威厳にこだわらず寛平の持ちギャグである「かい~の」を実演してその場にいた全選手をコケさせ、集まったファンを大爆笑させたこともある。
 
プロ入り一年目の春季キャンプの時に、キャンプ地の[[鹿児島県]][[湯之元駅|湯之元]]から実家の北海道[[留萌市]]へ毎晩のように[[公衆電話]]をかけていたが、遠距離の通話料は高額なうえに、当時の電話機は10円玉しか使用できなかったので、あらかじめ用意しておいた10円玉があっという間になくなってしまった。そこでとある先輩選手が「電話機を横に倒すと10円玉が落ちるスピードが遅くなるぞ」と冗談を言うと、若松は「先輩、僕は[[日本電信電話公社|電電公社]]にいましたがそんな話は聞いたことがありません。何かの間違いじゃないですか」と大真面目に答えたので、これは恐ろしく素直な男が入団してきたと評判になったという<ref>『週刊サンケイ』1978年10月15日臨時増刊号(サンケイ出版、1978年)57頁</ref>。
 
プロ入り時、所属していた[[NTT北海道 (野球チーム)|日本電信電話公社・北海道野球部]]の応援団からヤクルトの応援団に、応援歌が譲り渡された [http://www3.ocn.ne.jp/~champ/dan/midi.htm#マーチ]。現在、この応援歌は専用応援歌の無い左打者用の汎用テーマ「でんでんマーチ」として使用されている。若松の個人応援歌([[ペレス・プラード]]「闘牛士のマンボ」。2011年までの[[青木宣親]]専用のチャンステーマとして使用)とは別物である。
 
[[1980年代]]前半、[[ヤクルト本社]]の「ヤクルト野菜ジュース」の[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]モデルに起用された(その時のキャッチコピーは「クリーンヒット」と[[緑黄色野菜]]を絡ませて「グリーンヒット」)他、[[ストライカー (曖昧さ回避)|ストライカー]]([[スポーツドリンク]]。現在は終売)のラベルのイラストのモデルを務めたともされている。
 
[[荒井幸雄]]や[[真中満]]のような、身長170cm前後の体つきが小さい野手がヤクルトに入団すると「若松2世」と呼ばれる。荒井と真中は共に若松の指導を受け、主力選手としてリーグ優勝・日本一に貢献している。
 
団塊の世代にあたる。[[1978年]]日本一当時のスワローズの主力選手では[[安田猛 (野球)|安田猛]]、[[松岡弘]]、[[大矢明彦]]が[[1947年|昭和22年]]度生まれの同級生。中でも大矢は親友で現役当時から公私共に親しい関係である。
 
=== 北海道が誇る大スター ===
[[1978年]]に留萌市民栄誉賞、[[1981年]]に道民栄誉賞を受賞するなど、北海道での若松の人気は非常に高い。
 
2004年まで年に一回[[札幌ドーム]](開場以前は[[札幌市円山球場]])で開催されていたヤクルト主催試合は、道内での若松人気に加えて、当時は[[佐藤真一]]、[[五十嵐亮太]]、[[米野智人]]など北海道に縁のある選手が多数在籍していたこともあり、巨人戦や[[阪神タイガース|阪神]]戦に次いで多くの観客で埋まっていた(日本ハムの札幌移転と[[日本生命セ・パ交流戦|セ・パ交流戦]]開始に伴い打ち切り)。
 
また日本ハムの札幌移転決定を受けて道民に初代監督としてふさわしい人物をアンケートしたところ、当時まだヤクルト監督だった若松が、日本ハムの次期監督就任が決まっていた[[トレイ・ヒルマン]]を差し置いて、最も多くの支持を集めたこともあった。
 
[[2005年]][[5月28日]]には円山球場開場70年を記念して行われた[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]vsヤクルト戦の[[始球式]]で打者として打席に立った。現役監督が公式戦の始球式に参加するのは異例だが、ビジターであったにもかかわらず若松には大声援が送られた。
 
== 詳細情報 ==