「ウィリアム・キッド」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
35行目:
キッドはアドヴェンチャー・ギャレー号とケダー・マーチャント号を率いて[[サント・マリー島]]に到達する。この地で彼はかつてキッドの下で副船長として働いていたが、船を盗み海賊として活動している[[ロバート・カリファド]](Robert Culliford)と彼が略奪したモカ号(Mocha Frigate)に出会う<ref name=d321>コーディングリ、(2000)、p321</ref>。そこで彼らは{{仮リンク|ボンブー酒|en|Bumbo}}を飲み交わし、互いに物品を送りあった<ref name=手助け>別枝、(1965)、p125~p127</ref>{{refnest|group="注"|クリフォードは、大量の高価な絹布を、キッドは、贈り物、2丁の銃、錨等をそれぞれ送り合った<ref>別枝、(1965)、p125~p127</ref>。}}本来海賊退治のために派遣されたキッドはこの地で海賊を助けてしまった<ref name=手助け/>。しかしキッド船長自身はこの話を否定している<ref name=手助け/>。彼によれば、彼はセント・メアリ島到着時にカリファド一味を発見したので、海賊退治のために彼らを拘束することを決めた<ref name=d321/>。キッドは乗員に船を捕らえるように指令を出したが、クルーたちはその命令を聞かなかった<ref name=d321/>。そこでキッド船長は乗組員たちにケダー・マーチャント号の略奪品を分け与えた<ref name=d321/>。しかし配当金を得た乗員のほとんどが謀反を起こし、カリファドに合流してしまった<ref name=d321/>。そして、18人の船員しかキッドの元に残らなかった<ref>コーディングリ、(2000)、p321~p322</ref>。
 
=== 追われるキッド船長 ===
キッドは、[[喜望峰]]を回るための風を5か月間待った。損壊していたアドヴェンチャー・ギャレー号を破棄しケダー・マーチャント号に乗り換えカリブ海に向かった<ref name=d322>コーディングリ、(2000)、p322~323</ref>。西インド諸島の[[アンギラ|アングイラ島]]で自分が「東インドの疫病神」と言われていることを知ったキッドは、ベロモントの手を借りようとした<ref name=d322/><ref>ゴス、(2010)、p21</ref>。彼はベロモントに連絡が取れるまで[[セント・トーマス島|セント・トマス島]]の宿屋に泊まろうとしたが、お尋ね者であることを理由に宿泊を拒否された<ref name=d322/>。[[イスパニョーラ島|エスパニョラ島]]の南東部の海岸にある川でケダー・マーチャント号を破棄した<ref name=d322/>。船体が大きすぎて目立ってしまうからだった<ref name=d322/>。その代わり財宝の一郎は[[スループ|スループ船]]に移され、残りはキッドが安全な状況になるまで見張りを立てて置かれた<ref name=d322/>。国王は、喜望峰東部から[[ソコトラ島]]、[[コモリン岬|コーモリン岬]]までの海域で行われた海賊行為に対しては、[[1699年]][[4月]]末までに自首すれはどんな罪であろうとその罪を免除するという布告を出した<ref name=c149>ジョンソン、(2012)、p149~150</ref>。だだし、キッドと{{仮リンク|ヘンリー・エイヴリー|en|Henry Every|label=エイヴリー}}だけは例外だった<ref name=c149/>。[[ロング・アイランド]]に到着したキッドは、ベロモントに会うため[[ボストン]]に行った(この時ベロモントは、キッドを誘き寄せるため偽物の歓迎の手紙を書いた)<ref name=d322/>。ボストンに着いたキッドはベロモントに裏切られ逮捕された<ref>コーディングリ、(2000)、p323</ref>。[[1700年]][[4月]]、キッドはイギリスに連行された<ref>コーディングリ、(2000)、p324</ref>
 
=== 裁判・最期 ===
[[ファイル:Captain Kidd hanging.jpg|right|200px|thumb|縛り首になったキッド船長『海賊自身の書』より<ref>マーカス・レディカー(著)、和田光弘・小島崇・森丈夫・笹井俊和(訳)『海賊たちの黄金時代:アトランティック・ヒストリーの世界』2014年8月、ミネルヴァ書房、p193</ref>]]<!---[[File:The Book of Buried Treasure.png|left|260px|thumb|クェダ・マーチャント号に対してフランス政府が発行した航行許可書<ref name=パス>別枝、(1965)、p181~p183</ref>。キッドの裁判中に提出されることはなかったが、事件の2世紀後にロンドンの公文書館で発見された<ref name=パス/>。]]--->
彼には自分の容疑をはらす機会は一度もなかったし、裁判が不利になるように検察や弁護側は行動した<ref name=d324>コーディングリ、(2000)、p324</ref>。最終的に、彼は5つの海賊行為と殺人の罪で[[死刑]]となった<ref name=d324/>。
 
その[[死体|遺体]][[タール]]を塗られ、散り散りにならないように鉄の輪をはめられた上で鉄の檻に入れられた<ref>コーディングリ、(2000)、p326</ref>。海賊を志す者に対する警告として[[テムズ川]]の[[絞首台]]に数年間放置された<ref>コーディングリ、(2000)、p326</ref>。死後、彼を称える[[バラッド]]が多数制作され、その一部は動画投稿サイト[[YouTube]]で試聴可能である<ref>ゴス、(2010)、p23</ref><ref>ゴス、(2010)、p239</ref>。
 
== 政争に巻き込まれた説 ==
48行目:
 
== フィクションと財宝伝説 ==
<!---[[ファイル:Breads's Gibbet Iron, Rye.png|thumb|200px|right|処刑された海賊の遺体は{{仮リンク|ギベット|en|Gibbeting}}と呼ばれる金属の枠に縛られた上で吊るされた<ref>増田、(2006)、p97</ref>。この枠は、処刑した海賊の遺体をさらす為と遺体を勝手に埋葬させない為に使用された<ref name=ギベット>プラット、(2006)、p57</ref>。この枠の大きさは、処刑執行前に計られていたので海賊たちは処刑よりもこのサイズ測定を恐れていた<ref name=ギベット/>。]]--->
キッドは、逮捕される前に{{仮リンク|ガーディナー島|en|Gardiners Island}}に財宝を埋蔵した<ref>コーディングリ、(2000)、p323~324</ref>。現在でもその島に財宝が埋蔵されているとする人もいるが、財宝はベロモントの部下によって発見されている<ref>コーディングリ、(2000)、p323~324</ref>{{refnest|group="注"|ちなみにこの財宝の一部は[[アン女王]]の命令により[[グリニッジ病院]]の理事会に渡された<ref>コーディングリ、(2000)、p327</ref><ref>別枝、(1965)、p190</ref>。}}。前述のようにキッドの財宝は発見されているが、その財宝が人々の予想に反してたったの約1万ポンドほどの価値しかなかったので、当時の人々はまだ発見されていない財宝(最低でも5万ポンド分)がどこかにあるはずと推測した<ref name=財宝13>別枝、(1965)、p13~16</ref>。後に[[ニューイングランド]]の入り江や小湾、アメリカの東海岸、西インド諸島の島々などが候補地とされ、隠し財宝の金額も増えていった<ref name=財宝13/>。さらに時代が下がると日本の[[南西諸島]]、アメリカの太平洋岸、[[フィリピン]]などキッド自身が足を延ばしていない場所も隠し財宝の候補地に加えられた<ref name=財宝13/>{{refnest|group="注"|キッド自身は、裁判中にガーディナー島以外の場所に財宝を隠したりはしていないと発言している<ref>別枝、(1965)、p14</ref>。}}。
 
54 ⟶ 53行目:
 
[[日本]]の[[トカラ列島]]に浮かぶ[[宝島 (鹿児島県)|宝島]]も、キッドが財宝を隠したという言い伝えが残っている<ref name="toshima HP">[http://www.tokara.jp/profile/takara.html 宝島について] - 十島村役場HP</ref>。
 
 
[[1983年]]、{{仮リンク|コーク・グラハム|en|Cork Graham}}とリチャード・ナイトは、キャプテン・キッドの[[埋蔵金|埋蔵財宝]]を探索しに[[ベトナム]]の[[フーコック島]]に行った。ナイトとグラハムらは捕らえられて、ベトナムの領土への[[不法入国]]で有罪となり、それぞれに10,000ドルの[[罰金]]が科された。罰金を支払うまでの11週間、彼らは収監されていた。<ref name="Post12may">{{cite news|title=Tracking Captain Kidd's Treasure Puts Pair in Vietnamese Captivity|last=Branigin|first=William|date=12 May 1984|work=The Washington Post}}</ref> 
65 ⟶ 63行目:
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* デイヴィッド・コーディングリ(編)、増田義郎、竹内和世(訳)『図説 海賊大全』東洋書林、2000年
* チャールズ・ジョンソン(著)、朝比奈一郎(訳)『海賊列伝(下)』中央公論社、2012年
* フィリップ・ゴス(著)、朝比奈一郎(訳)『海賊の世界史(下)』中央公論社、2010年
* 増田義郎(著)『図説 海賊』河出書房新社、2006年
* 別枝達夫(著)『キャプテン・キッド権力と海賊の奇妙な関係』中央公論社、1965年
<!---*リチャード・プラット(著)、朝比奈一郎(訳)『「知」のビジュアル百科 26 海賊事典』あすなろ書房、2006年-->
 
== 関連項目 ==
* [[:en:Captain Kidd's cannon]]
{{Normdaten}}
{{History-stub}}