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さらにそのころハリウッドにやってきた大映社長の[[永田雅一]]が自ら雪洲に帰国を勧めたため、雪洲は10月に13年ぶりに日本の土を踏むことになった。[[パンアメリカン航空]]機で[[羽田国際空港]]に戻った雪州を妻の鶴子と3人の子供たちが出迎え、初めて家族5人が一堂に会した。大映では『[[レ・ミゼラブル]]』を撮り、次女の富士子と共演。雪洲は日本に腰を据えて、[[1950年代]]にかけて映画や当時普及し始めた[[テレビ]]にと大活躍した<ref>中川、p289 </ref>。
 
=== 最後の栄光と晩年 戦場にかける橋 ===
[[File:Sessue Hayakawa in Hell to Eternity trailer.jpg|thumb|right|220px|『戦場にかける橋』の予告編(1957年)]]
1956年、雪洲は『[[戦場にかける橋]]』への出演依頼を受ける。内容を聞いて逡巡する雪洲の背中を鶴子が押し、雪洲は出演を決断する。[[スリランカ]]での長期ロケは困難を極めたが、完成した作品は大ヒットし、批評家からも絶賛された。1958年[[アカデミー賞]]で作品賞、主演男優賞([[アレック・ギネス]])、監督賞([[デビッド・リーン]])、脚色賞、撮影賞、作曲賞を獲得。雪洲も助演男優賞にノミネートされたものの受賞には至らなかった。本作は他にも[[英国アカデミー賞]]、[[ゴールデングローブ賞]]、[[ニューヨーク映画批評家協会賞]]などを総なめし、出演した雪洲の名声は不動のものとなった。
 
1958年[[アカデミー賞]]で作品賞、主演男優賞([[アレック・ギネス]])、監督賞([[デビッド・リーン]])、脚色賞、撮影賞、作曲賞を獲得。雪洲も助演男優賞にノミネートされたものの受賞には至らなかった。本作は他にも[[英国アカデミー賞]]、[[ゴールデングローブ賞]]、[[ニューヨーク映画批評家協会賞]]などを総なめし、出演した雪洲の名声は不動のものとなった。
 
=== 最後の栄光と晩年 ===
その後、日米を往復しながら映画やテレビドラマなど多くの作品に出演、1959年には自伝『[[武者修行世界を行く]]』を出版し、その記念パーティーには日本を代表する多くの文化人や著名人が名を連ねた。1960年には英語の著作『ゼン・ショード・ミー・ザ・ウェイ』(Zen showed me the way)を出版し、ハリウッド映画『[[戦場よ永遠に]]』(Hell to eternity)に出演。この作品ではかつての人気女優だった妻鶴子にも声がかかり、夫婦での共演となった。しかし、長年の苦労が鶴子の体を蝕んでおり、[[1961年]](昭和36年)[[10月18日]]死去、享年73。
 
鶴子を失った雪洲は大きな喪失感に襲われるが、なんとか俳優業を続け、[[1964年]](昭和39年)に38歳年下の[[吾妻秀穂]]と再婚する。80歳を過ぎても[[トヨタ・カローラ]]のCMに出るなど仕事を続けた雪洲だったが、[[1968年]](昭和43年)の日本映画『[[神々の深き欲望]]』の降板を最後に俳優業を引退し、[[1973年]][[11月23日]]に入院先の[[杏雲堂病院]]で[[急性肺炎]]のため逝去した。<ref>中川、p348 </ref>享年88(満87歳没)。マスコミは『国際派俳優早川雪洲死去』とその死を悼み、ハリウッドでは[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にその名前「Sessue Hayakawa」を刻んで永遠の記念とした。
 
== 主な出演映画 ==