「ジュゼッペ・ガリバルディ」の版間の差分

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しかしこの戦争の側面の1つは、彼を大変落胆させる結果となる。彼の故郷である[[ニース]]が[[サヴォイア|サヴォワ]]と共に、[[プロンビエールの密約]]に基づいてフランス参戦の見返りとして割譲されたからである。1860年4月に、密約を進めた親仏派のカヴールをガリバルディは強く批判し、以降彼の合理主義的政策に一種の嫌悪感すら覚えるようになった。
[[ファイル:Perrin C. lith. - Entrata di Garibaldi in Messina - litografia - 1861.jpg|thumb|270px330px|赤シャツ隊]]
[[ファイル:Battle_of_Calatafimi.jpg|thumb|330px|ナポリ・シチリア王国軍を破る赤シャツ隊(カラタフィーミ)]]
 
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==== ローマ問題 ====
[[ファイル:Garibaldi blessé à la bataille de l'Aspromonte, Gerolamo Induno.jpg|thumb|360px330px|アスプロモンテに佇むガリバルディと兵士達]]
{{Main|ローマ問題}}
 
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=== 統一後の戦い ===
[[ファイル:Bataille_de_Bezzeca.jpg|thumb|300px330px|ベッツェッカの戦い]]
[[ファイル:GaribaldiFam1878.jpg|thumb|320px330px|ガリバルディ一族]]
[[南北戦争]]勃発に際し、ガリバルディはアメリカ大統領[[エイブラハム・リンカーン]]より、自由主義を奉じる北軍の司令官に加わるよう依頼された。ガリバルディは「[[奴隷]]の即時解放」を条件に了承したが、開戦初期の時点では農業問題から北部もまた奴隷解放には慎重な姿勢を取っており、リンカーンはガリバルディへの司令官打診を断念した<ref>{{cite news |first=Rory|last=Carroll|authorlink= |coauthors= |title=Garibaldi asked by Lincoln to run army |url=http://www.guardian.co.uk/world/2000/feb/08/rorycarroll |work=The Guardian |publisher=Guardian News and Media Limited|date=2000-02-08|accessdate=2008-06-03}}</ref>。1864年、かつて立ち寄ったイギリスを再訪し、[[ロンドン]]で再び民衆からの歓迎を受けた<ref>{{cite book | author=Diamond, Michael | title=Victorian Sensation | publisher=Anthem Press | year=2003 | isbn=1-84331-150-X | pages=50–53 }}</ref>。次いでイギリスの宰相[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン卿ヘンリー・ジョン・テンプル]]と会談した際、[[バルカン半島]]諸国で独立運動を展開する運動家たちを紹介され、彼らを激励すると共に支援を行うための組織結成を模索した。かつての同志マッツィーニの[[青年ヨーロッパ]]にも通ずる動きだったが、実現までには至らなかった。