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{{複数の問題|存命人物の出典明記=2012年8月|参照方法=2018年3月}}
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| 芸名 = 国生 さゆり
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バイクの免許を取得し、同年10月から約一か月掛けて[[北アメリカ大陸]]を横断する企画を実行。その様子は『夕やけニャンニャン』内で逐一報告された。完走を遂げた際には「[[交通事故|(交通)事故]]を起こすと芸能活動ができなくなるので、もうバイクには乗れません」と、涙ながらに発言。ビデオソフト「HELLO!アメリカ」(2004年に[[DVD]]ソフト化)、写真集「EAGLE」などの形で商品化された。
[[1987年]]3月、『夕やけニャンニャン』およびおニャン子クラブを卒業<ref name="kokusa"/>。
卒業時、『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブのブームは峠を過ぎていたが、ソロとしての国生さゆりはアイドル絶頂期にあり、卒業直後には初主演映画『[[いとしのエリー (漫画)|いとしのエリー]]』が劇場公開<ref name="kokusa"/>。三浦友和と共演できたことは嬉しかったといい、山口百恵と三浦友和が出演していたアーモンドチョコレートの販促用下敷きを「今でも実家で大切にしてます」と話した思い出を後に語っている<ref name="kokuraireki"/>。また同年5月に『[[キスより簡単]]』で連続ドラマ初主演を果たすなど、卒業後もその活動の勢いは続いた。
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1991年のドラマ『しゃぼん玉』出演以降、[[長渕剛]]との不倫関係が噂されるようになる<ref name="鉄拳"/>。これに関して長渕は「自分は一般常識の範囲外で生きている」と発言。1995年1月、長渕が[[大麻取締法]]により逮捕されたのを受けて記者会見を開き、自身は薬物に無関係であり、長渕の夫人([[志穂美悦子]])を交えて話し合い不倫関係を清算させたと発表。「潔い」、「保身のために逃げた」と賛否が分かれたが、この件を機にバラエティ番組に多く出演するようになり、「強気に恋愛を語る」というキャラクターを得る。
1995年4月から『[[ウッチャンナンチャンのウリナリ!!]]』にレギュラー出演。番組の企画で、[[室井滋]]、[[高山理衣]]との3人組ユニットMckeeを結成。曲を出し、オリコン初登場28位を記録するという結果になる。しかし、リリースした曲はこの1曲で終わり、Mckeeも自然消滅した。番組のマイナーチェンジ(「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」へ番組名改名・番組内容大幅リニューアル)により1996年の夏に降板
これ以降も[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作『[[島田紳助がオールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えますスペシャル!]]』などに出演
=== 2000年以降の活動など ===
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2008年、デビュー曲のセルフリメイク「バレンタイン・キッス 2008」を発表。同年2月14日、[[AKB48]]のライブ内で歌唱された「バレンタイン・キッス」でもドッキリ企画として同曲の2番目のフレーズから参加し、AKB48との共演を果たす。この後の記者会見では報道陣に今でも「現役アイドル」宣言をした。
11月には、女子プロレス団体[[OZアカデミー]]による[[新宿FACE]]での興行に、交友関係のあった[[尾崎魔弓]]の[[セコンド]]として登場<ref>[http://www.oz-a.com/press/2008_11_06.html 「OZ新宿大会での尾崎軍セコンドに国生さゆりさんが登場した件につきまして」OZアカデミープレスリリース、2008年11月6日]</ref>。
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同年11月、[[宝くじ]]で100万円を当てたことを本人の[[ブログ]]で報告した。その後、2011年[[3月11日]]、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の[[義援金]]として、当選した宝くじの当選金100万円全額を寄付すると自身のブログで明かした。
2013年9月
== 人物 ==
1980年代のアイドルの中で、中森明菜、小泉今日子、斉藤由貴に影響を受けていた。特に斎藤に関してはカルピスのCMで、セーラー服に赤いストールを巻いて雪の中にいるというシーンが綺麗に見え、デビュー前であった国生は非常に感銘を受けたという<ref name="kokuraireki"/>。1980年代のアイドル業界については2017年の取材で「今は、何かをやろうとすると、その予算で売上げが立てられるか、最初に聞かれます。でも80年代って『それ面白いね』でやってしまう。後からいろいろくっついてきて、後の後でお金の話が出てくる。なんでも面白がってやった時代」と振り返っており、さらに「今は、どうしても時間の制約が出てくるので、私は懇切丁寧に教えてもらった世代だなと思います」と感謝の意を述べている<ref name="kokuraireki"/>。
陸上短距離走のインターハイ広島県代表選手であった<ref name="kokusa"/><ref name="東スポ2-2">[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/33444/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載2〉下]</ref>。100メートルのベストタイムは12秒8<ref name="東スポ2-2"/>。「12.8秒。これが私の青春です」と1987年3月のおニャン子クラブの卒業式の記念プロモにて自らが語るほどであっ
おニャン子クラブに在籍していた時、本屋にいたら店の向こう側から自分を無断で撮影していた[[カメラ小僧]]を見つけたので、気付かれないように店を出るとカメラ小僧の後ろに回って相手を驚かせて、「何やってんだ、お前」と問い詰めた挙句、カメラ小僧の[[写真フィルム]]を全て没収して台無しにしたことがあった<ref>「まいどおニャン子 卒業記念完全保存版」 [[扶桑社]] 132頁 ISBN 4-89353-142-5</ref>。
アイドル時代、[[毎日新聞]]に「当世風 美しき虚像」と題して取り上げられた際に、「アイドル[[青田買い]]時代の目立ちたがり娘は、テレビカメラに向かって確かめる。テレビよ、テレビよ、一番の器量よしはだれ?」「会ってみたら、ろくなあいさつもあらばこそ、人前かまわず髪をブラッシングするわ、足を投げ出すわ。ほおづえ突いて、“変に大人になりたくないしぃ”」「芸能界はアイドル人気の使い捨てばやり、美しい虚像も早々と“星屑”にならなければいいんですが」などと酷評されたことがあった<ref>「Look 国生さゆり」[[毎日新聞]] 1987年4月14日夕刊</ref>。後のインタビューで、「この当時はおニャン子クラブのメンバーを含めた他のアイドルを必要以上にライバル視していたことから、色々と疑心暗鬼に陥っていた。取材の時にいい顔しなかったのがいけないのに、ホント、ヤナ奴だよねー。マスコミに批判された時はすごいコタえたが、結局悪いイメージにしても何にしても自分が作ったものなんだよね。今にして思えばさゆりが蒔いた種なんだ」と語っていた<ref>「背のび強がりもうやめます!!」[[DUNK (雑誌)|DUNK]] [[集英社]]、1987年10月号、127-129頁</ref>。
前述の通り、高校を卒業しおニャン子メンバーになる前は、[[資生堂]]の美容部員での就職が決定していた<ref name="東スポ34"/>。しかしおニャン子メンバーになった後に、資生堂の競合他社である[[カネボウ (1887-2008)|カネボウ]]の1986年秋の[[キャンペーンガール]]としての話があった時、国生は「(カネボウに)選出していただいたのは光栄だが、資生堂に何か申し訳ない気持ちは多少有ります」と語っていた<ref group="注">カネボウCM出演時の[[バックグラウンドミュージック|BGM]]は、国生本人の歌う『[[ノーブルレッドの瞬間]](とき)』であった。</ref>。
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