「東郷平八郎」の版間の差分

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東郷が統合となっていたのを修正。
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当初[[ダートマス]]の[[海軍兵学校 (イギリス)|王立海軍兵学校]]への留学を希望したがイギリス側の事情で許されず、[[ゴスポート]]にある海軍予備校{{仮リンク|バーニーズアカデミー|en|Burney's Academy}}で学び、その後に[[商船学校]]の{{仮リンク|ウースター協会|en|Thames Nautical Training College}}で学ぶことになる。留学先では「To go, China(=「[[支那]]に行け」の意)」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし[[宮古湾海戦]]に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。
 
この留学の間に[[国際法]]を学んだ。後年、統合東郷は日清戦争時に[[防護巡洋艦]]「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」の艦長として、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈する([[高陞号事件|高陞号撃沈事件]])。英国留学で得た知識により、撃沈は[[国際法]]に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、この時の沈着な判断力が、後に連合艦隊司令長官に人選される要素となった。
 
帰国途上、西郷隆盛が[[西南戦争]]を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である[[小倉壮九郎]]は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。