「境部薬」の版間の差分

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『[[日本書紀]]』によれば、[[皇極天皇|斉明天皇]]4年([[658年]])11月3日と5日に、斉明天皇と皇太子の中大兄皇子(後の[[天智天皇]])が紀温湯に行った留守に、[[有間皇子]]は都で[[蘇我赤兄]]と挙兵を相談した。書紀は「ある本には」として、有間皇子、蘇我赤兄、塩屋小戈、[[守大石]]、坂合部薬が、短籍(籤)で謀反を占ったという話を伝える。
 
ところが5日の夜に赤兄は有間皇子の家を囲ませ、天皇に事を急報した。9日に有間皇子、[[守大石]]、坂合部薬、[[塩屋このしろ|塩屋鯯]](塩屋小戈)は捕えられ、紀温湯に送られた。11日に有間皇子は殺され、坂合部薬は[[尾張国]]に流された。
 
壬申の乱で活躍したことから、坂合部薬が後に赦されたことがわかる。そこで現代の学者の中には、坂合部薬はもともと赤兄とともに有間皇子を陥れようとしたのだと推測する者がある。ただこの場合、そもそも罪とされなかった赤兄との処分の違いについては説明されない。