削除された内容 追加された内容
95行目:
 
=== 豊臣氏大坂城 ===
[[File:Osaka-zu byobu Gokuraku-bashi.jpg|thumb|豊臣大阪城の極楽橋(豊臣期大阪図屏風)。橋の両側の板塀や上層の楼閣外壁の彫刻などが[[フロイス]]の描写と合致する。慶長元年(1596年)に造られたfdhCKhsKILUAyf9o ywrqsoflmdizkxcjuvhgiurfa5ey b9raoniyfg
橋だが秀吉没後の慶長5年に[[豊国神社]]に移築された<ref>[http://www.kansai-u.ac.jp/Museum/naniwa/publication/book36.pdf 新発見「豊臣期大坂図屛風」の魅力]関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2009年3月31日</ref>]]
初代築城総奉行、[[黒田孝高]]が縄張
初代築城総奉行、[[黒田孝高]]が縄張を担当。輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。秀吉は孝高に築城に際しての指示、大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。[[丹羽長秀]]が築城した[[安土城]]の石垣をそのまま踏襲しており、現在の大阪城の地下7メートルから当時の石垣が発見されている。
 
台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むよあほ
に惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城・xdcjんk[[真田丸]]が構築された。果
たして冬の陣は、この方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となっ


。<!--一説によれば、築城者である秀吉も、南側の防御の弱さを気にしていたといわれる。また、あるとき家康は御伽衆を集め座興として大坂城を攻める時
はどうすればよいかと問い、その答として南方から攻め上げる事を話したが、のちに家康は冬の陣においてその通りの攻城を行ったという逸話もある。いずれも真偽は不詳である。-->
 
=== 徳川氏大坂城 ===