「浦野烋興」の版間の差分

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* [[1970年]] - 警視庁を退職。[[愛知県]]に戻り、[[豊田通商]]に入社。
* [[1975年]] - [[衆議院議員]][[浦野幸男]]の長女和千代と結婚。
* [[1976年]] - [[12月5日]] - [[第34回衆議院議員総選挙]]で義父が6選。
* [[1977年]]
** [[1月16日]]、義父が心不全のため死去<ref>『[[東海愛知新聞|東海新聞]]』1977年1月18日、1面、「浦野前労相が死去 稲垣氏繰り上げ当選」。</ref>。
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** その後トップ当選の座は[[全トヨタ労働組合連合会]]出身の[[民社党]]公認候補([[渡辺武三]]・[[伊藤英成]])に譲るも、義父以来の後援会に支えられ、毎回10万票以上を獲得する安定した選挙を展開し、連続6期当選。[[宏池会]]に所属する。自民党愛知政治大学院講師も務める。
**国際人口問題議員懇談会(会長・[[岸信介]])に参加。
* [[1985年]] - [[12月28日]] - [[第2次中曽根内閣第2次改造内閣]]が成立。[[外務省|外務]][[政務次官]]に就任。
* 1986年
**[[3月3日]]~[[3月5日]]、[[福田赳夫]]・[[鹿野道彦]]・[[土井たか子]]・[[扇千景]]らとともに第2回人口と開発に関するアジア国会議員代表者会議に出席。
**7月、[[大相撲]] [[名古屋]]場所[[千秋楽]]の表彰式において、 [[優勝]]した第58代 [[横綱]] [[千代の富士]](17度目、成績14勝1敗)に [[内閣総理大臣杯]]を代与する。
* [[1987年]] - [[11月6日]] - [[竹下内閣]]が成立。[[経済産業省|通商産業]][[政務次官]]に就任。
* [[1995年]]
** [[8月8日]]、[[村山内閣改造内閣|村山改造内閣]]において[[科学技術庁長官]]兼[[原子力委員会]]委員長に就任(初入閣)。
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** [[オーストリア]]・[[ウィーン]]で開かれた第39回[[国際原子力機関|IAEA]]総会政府代表演説の一番目に演説を行う。
** [[10月20日]]、[[第41回衆議院議員総選挙]]で[[愛知県第11区|愛知11区]]から出馬し、比例復活もならず落選。政界引退を表明。
* [[1998年]] - [[7月12日]] - [[第18回参議院議員通常選挙]]で[[愛知県選挙区]]から出馬し落選。再び政界引退を表明。
* [[2012年]] - [[4月29日]] - [[旭日重光章]]受章。
* [[2013年]] - [[3月2日]] - 豊田市名誉市民<ref>[http://www.city.toyota.aichi.jp/division/am00/am02/1251407_17381.html 豊田市名誉市民]豊田市ホームページ</ref>。
 
== 人物 ==
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== 引退後 ==
* 政界引退後は妻とともに自宅で愛犬と[[散歩]]や[[読書]]、[[碁]]、[[野菜]]等の栽培をしながら過ごしているが、隠遁生活をしているわけではなく、豊田市四郷町下古屋自治区顧問や義父・幸男が創設した豊田市柔道会の顧問(どちらも現在は退任)を務めている。
* 自邸敷地内に「道満さんの祠」([[陰陽師]][[道摩法師|蘆屋道満]]を祀る塚)があり、地域住民により毎年供養が行われ、自身も毎年祭礼の世話に当たっている{{要出典|date=2018年7月}}
* [[中日新聞]]による引退後の取材では「[[選挙制度]]改革に翻弄され、[[政治家]]としては不完全燃焼だった」と語っている。