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'''イングランド国教会'''(イングランドこっきょうかい、{{lang-en-short|Church of England}})は、[[16世紀]]の[[イングランド王国]]で成立したキリスト教会の名称、かつ世界に広がる[[聖公会]]([[アングリカン・コミュニオン]])のうち最初に成立し、その母体となった教会。'''イギリス国教会'''(イギリスこっきょうかい)、'''英国国教会'''(えいこくこっきょうかい)、また「国教会」という訳語が不正確であるとして'''イングランド教会'''(イングランドきょうかい)<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=3ZJtFcb1WVEC&pg=PA137&lpg=PA137#v=onepage&q&f=false 下楠昌哉 編 『イギリス文化入門』 p137]</ref>、'''英国聖公会'''<ref>[http://www.nskk.org/province/daitou.html 日本聖公会代祷表]</ref>とも呼ばれる。聖公会('''アングリカン・チャーチ''')という名称は、アングリカン・コミュニオン全体の日本語訳であると同時に、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の[[日本語]]訳である。
もともとは[[カトリック教会]]の一部であったが、[[16世紀]]のイングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]から[[エリザベス1世]]の時代にかけて[[ローマ教皇庁]]から離れ、独立した[[教会 (キリスト教)|教会]]となった。[[プロテスタント]]に分類されることもあるが、他プロテスタント諸派とは異なり、教義上の問題でなく、政治的問題(ヘンリー8世の
== イングランドのキリスト教史 ==
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[[File:York.mstr..jpg|thumb|right|200px|ヨーク管区の[[ヨーク大聖堂]]]]
=== キリスト教の到来 ===
[[グレートブリテン島]]に[[キリスト教]]が初めて到来したのは、[[ローマ帝国]]時代の紀元[[200年]]頃のことであると考えられている。イ
しかし、キリスト教の歴史の中では正式な
他の
=== ローマとの分裂 ===
王権と教皇権の争いはあっても、イングランドの教会は中世を通じてローマとの一致を保ち続けていた。イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのは、[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の時代である。その原因はヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにあった。すなわち、[[キャサリン・オブ・アラゴン]]を
ヘンリー8世は[[1527年]]に教皇に対して、キャサリンとの結婚の無効を認めるように願った。[[1529年]]までに繰り返し行われた教皇への働きかけが失敗に終わると、ヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめ、教皇に送付した。続いて[[1531年]]にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに
[[1532年]]5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表した。[[1533年]]には教皇上訴禁止法が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、[[カンタベリー]]と[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]の大司教が教会裁治の権力を保持することになった。ヘンリー8世の言いなりであった[[トマス・クランマー]]が[[カンタベリー大司教]]の座に就くと、先の裁定に従ってクランマーが王の婚姻無効を認め、王は[[アン・ブーリン]]と再婚した。教皇クレメンス7世がヘンリー8世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は[[1534年]]に[[国王至上法]](首長令)を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。イングランドの教会を自由に出来る地位に就いたことは、ヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を感じさせるものとなった。やがて[[トマス・クロムウェル]]のもとで委員会が結成され、[[修道院]]が保持していた財産が国家へ移されていった。こうしてイ
=== プロテスタント運動との関係 ===
ローマと袂を分かったとはいえ、イングランド教会は決してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世はもともとプロテスタントを攻撃する論文を発表して教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]から「[[信仰の擁護者]]」({{en|Defender of the Faith}})という称号を与えられており、それを誇っていた。ヘンリー8世がローマと訣別したことで、大陸のプロテスタント運動が急速にイングランドに流入し、聖像破壊、巡礼地の撤廃、[[聖人暦]]の廃止などを行った。しかしヘンリー8世自身は信条としてカトリックそのものであり、[[1539年]]のイングランド教会の6
変革を嫌った父ヘンリー8世と違った息子[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]の下で、イングランド教会は最初の変革を行った。それは典礼・祈祷書の翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが[[1549年]]の『[[聖公会祈祷書|イングランド国教会祈祷書]]』であり、[[1552年]]に最初の改訂が行われた。
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真の意味でのイングランド国教会のスタートは、[[1558年]]に王位に就いた[[エリザベス1世]]の下で切られることになる。エリザベスは教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は[[1570年]]、[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]の時代まで破門されることはなかった。
イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは[[1559年]]である。[[イギリスの議会|議会]]はエリザベス女王を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。さらに女王は[[1563年]]の聖職者会議で「イングランド国教会の[[39箇条]]」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。
=== ピューリタン革命とカトリック解放 ===
このころから、イングランドにおける清教徒([[ピューリタン]])と国教会派の対立が深刻化した。[[1603年]]に即位した[[ジェームズ1世_(イングランド王)|ジェームズ1世]]は強く国教会派を支持、また[[王権神授説]]を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で[[欽定訳聖書]]の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の治世では国教会派が[[スコットランド王国|スコットランド]]にも教化しようとしたために、反発した人々の手によって[[清教徒革命]]が勃発し、敗れたチャールズ1世は[[1649年]]に処刑された。しかしその後、[[イングランド王政復古|王政復古]]や[[名誉革命]]を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。
イングランド国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派もいたが、国教会から出て別の教会を立てる者も多かった。後者を[[イングランド国教会の分離派|分離派]]と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派に[[バプティスト]]・[[メソジスト]]などがある。
[[1829年]]の
現代のイングランド国教会は、世界の聖公会において主導的役割を果たすと共に、ローマ・カトリックなどとの対話に積極的に
20世紀末から21世紀初頭にかけてイングランド教会で女性の聖職者の叙任が進み、2015年には初めての[[主教]]が生まれて話題となった。
== 教会組織 ==
[[File:Dioceses of Church of England.svg|thumb|right|イングランド国教会の教区 {{legend|#ff3|outline=#00|カンタベリー管区}}{{legend|#f99|outline=#00|ヨーク管区}}]]
[[イギリス君主]]がイングランド教会の最高ガバナー
イングランド国教会の管轄する地域は[[
▲[[イギリス君主]]がイングランド教会の最高ガバナー([[:en:Supreme Governor of the Church of England|Supreme Governor of the Church of England]])である。
=== 2つの管区 ===
▲イングランド教会の地域は[[大ブリテン島]]、[[マン島]]、[[チャンネル諸島]]、および[[ジブラルタル]]の外地教区([[:en:Diocese in Europe|Diocese in Europe]])などを含む。[[アイルランド国教会|アイルランド聖公会]]、[[ウェールズ聖公会]]、{{仮リンク|スコットランド聖公会|en|Scottish Episcopal Church}}([[スコットランド教会]]は[[長老派]])は英国聖公会とは別の独立した組織になっている。
イングランド国教会には2つの[[教会管区|管区]]があ
===
▲イングランド教会には2つの[[教会管区|管区]]があり、イングランド南部を管轄する「カンタベリー管区」と北部を管轄する「ヨーク管区」で、各管区では[[大主教]]が選ばれて管区長として代表となる。こうして[[カンタベリー大主教]](2013年1月からイングランド生まれの[[ジャスティン・ウェルビー]]師父)と[[ヨーク大主教]](2005年11月から[[ウガンダ]]生まれのジョン・センタム [[:en:John Sentamu|John Sentamu]] 師父)がいるが、歴史的な経緯に依り前者が英国聖公会の長である。またカンタベリー大主教は全世界の[[アングリカン・コミュニオン]]の長であり、10年毎の[[ランベス会議]]の議長でもある。
各管区はいくつかの[[教区]]に分かれていて、各教区では[[主教]]が選出されて教区を代表する。各地の教会はその地域の教区に属している。教区は教会行政の最も基本的な単位で、複数の教会からなる。主教区には主教座[[大聖堂|聖堂]]があり、席首司祭と参事会員からなる参事会が聖堂の管理運営にあたる。
=== 代表組織 ===
イングランド国教会は[[教会会議]](Synod)の総会
===貴族院===▼
英国国会の[[上院]]である[[貴族院 (イギリス)|貴族院 ]]には、26人の[[貴族院 (イギリス)#聖職貴族|聖職貴族]]がいて、国政に参加している。▼
▲=== 貴族院 ===
<gallery>
File:Ev Cambridge 129v.jpg|[[カンタベリーのアウグスティヌス]]司教
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</gallery>
== 教義と実践 ==
[[File:CommonWorshipBooks.jpg|thumb|right|200px|新祈祷書''[[:en:Common Worship|Common Worship]]''の
イングランド国教会の[[教会法]]は、[[聖書]]をその根本としている。加えて、その[[教義]]は[[教父]]の教え、[[公会議]]の[[エキュメニズム|エキュメニカルな]][[信条|信教]]([[ニカイア信条|ニカイ信教]]など)が聖書の教えと合致する限り、それらを元としている。教義内容は「[[39箇条]]」教義要綱と[[祈祷書]]に表れており、また[[執事 (キリスト教)#聖公会|執事]]、[[司祭#聖公会|司祭]]、[[主教]]からなる[[聖職者#キリスト教における聖職者|聖職者]]の[[#聖職者の聖別|聖別]]を認める
=== 礼拝と典礼 ===
イングランド国教会の[[典礼]](礼拝順序など)は『祈祷書』(Book of Common Prayer)にあると、[[イングランド法]]に規定されている。これに加えて、2000年から『[[聖公会祈祷書#2000年新祈祷書 Common Worship|新祈祷書]]」
礼拝の音楽は数世紀に
=== ハイ・チャーチとロウ・チャーチ ===
もともとイ
=== 女性聖職者 ===
1986年に
2013年6月、女性[[主教]]の任命が教会会議で決まっている。その後いくつかの会の審議で圧倒的賛成多数(例えば主教会では賛成37、反対2、棄権1)で決定されて、[[イギリスの議会|
=== 同性婚とLGBT ===
[[同性婚]]と[[LGBT]]については、近年イングランド国教会内で議論が続いている。公式には「教会法では同性婚を司式することは禁止されている
2014年にはジャスティン・ウェルビー大主教が「同性婚は英国の法律になった以上、それを認めなければならない
== 社会奉仕活動 ==
{{節スタブ}}
[[救世軍]]と類似した社会奉仕団体「チャーチ・アーミー」(教会軍)を組織し、運用している。
== 脚注 ==▼
<references />▼
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Anglican churches}}
* 世界の[[聖公会]]の各組織は、[[アングリカン・コミュニオン]]参照。
** [[日本聖公会]]
** [[米国聖公会]]
* [[ベーダ・ヴェネラビリス]]
* [[オックスフォード運動]]
* [[ジョナサン・スウィフト]]:イングランド国教会とローマ・カトリックとの訣別と清教徒との相克を風刺した『[[桶物語]]』を書いた。
* [[イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史]]
▲==脚注==
▲<references />
{{信条}}
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{{Christ-stub}}
{{UK-stub}}
{{DEFAULTSORT:いんくらんとこつきようかい}}
[[Category:イングランド国教会|*]]
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