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日本での紙幣の始まりは、記録上は『建武記』に記されている、[[後醍醐天皇]]が[[1334年]]([[建武 (日本)|建武]]元年)に[[内裏]]造営資金確保のために発行されたとされる楮幣(ちょへい)であるが、現物は残っておらず、実際に発行されたかも疑問視されている。現存する最古の紙幣は、[[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年)に[[伊勢国]][[山田 (伊勢市)|山田]]の商人が発行した[[山田羽書]]である。
 
[[江戸時代]]には、各藩が財政難の打開策として「'''[[藩札]]'''」を発行した。最初の藩札は諸説あるが、[[越前国]]の[[福井藩]]が幕許を得て[[1661年]]([[寛文]]元年)に発行したものとされている。この他、こうした古札類には藩以外にさまざまな発行元があったことが知られている。[[武家]]発行の札では、藩と同様に[[知行]]地を有していた[[旗本]]が発行したもの('''[[旗本札]]''')や、[[幕府]](兵庫開港札など)、[[御三卿]]([[一橋家]])、[[奉行所]]や[[代官所]]、藩[[家老]]が発行したものなどがある。更に[[京都|京]]、[[大和国]]を中心に[[宮家]]・[[公家]]・[[寺社]]が発行したもの('''[[宮家公家札]]''''''[[寺社札]]''')、各地の町や村が発行したもの('''[[町村札]]''')、特に[[宿場町]]が発行したもの('''[[宿駅札]]''')、[[鉱山]]の経営者が人夫の間で流通させたもの('''[[鉱山札]]''')、[[商家]]や[[豪農]]などの個人が発行したもの('''[[私人札]]''')などが知られている。なお、これらは兌換性が前提の規格化された[[一覧払]][[約束手形]]ともいうものである。また、(少なくとも日本全国において)[[強制通用力|強制流通力]]を有さない点などにおいて、藩を地方政府とみなさないという視点に立てば厳密な意味での[[貨幣]](紙幣)といいがたいものがある。
 
明治時代に入ると、[[戊辰戦争]]の戦費及び[[殖産興業]]の資金として[[不換紙幣]]である'''[[太政官札]]'''が発行された。当時、貨幣制度は未整備であり、太政官札の他、[[民部省]]、[[廃藩置県]]前の明治政府直轄地方組織である[[府藩県三治制#廃藩置県以前に設置された府県|府・県]]、[[為替会社]]が、それぞれ、紙幣('''[[民部省札]]'''等)を発行し混乱を極めた。[[1872年]](明治5年)4月に[[大蔵省]]が[[大蔵大臣]]の名において'''[[明治通宝]]'''を発行し、これらを順次交換・回収し、統合した。明治通宝はより精度の高い'''[[改造紙幣]]'''と交換され、並行して[[銀行制度]]が整備されると、政府紙幣は銀行券にその地位を譲り、[[1899年]](明治32年)に廃止された。但し、例外的なものとして、戦争において占領地でつかわれた[[軍用手票]](軍票)などがある。[[西南戦争]]において西郷軍が発行した「'''[[西郷札]]'''」も軍票に含まれるであろう。
 
[[1873年]](明治6年)には[[国立銀行条例]]により[[国立銀行|第一国立銀行]](のちの[[第一勧業銀行]]、現在の[[みずほ銀行]])が設立され、その後も153の国立銀行が次々と開業してそれぞれ'''[[国立銀行紙幣|銀行券]]'''を発行した。当初は兌換銀行券であったがのちに不換となり、やがて[[1882年]](明治15年)の日本銀行設立と同時に銀行券の発行が日銀独占のものとなり('''[[日本銀行券]]''')、[[インフレーション]]の根源であった政府紙幣と国立銀行券は次第に市場から回収された。[[1897年]](明治30年)には[[貨幣法]]により金本位制が採用されたが、[[1932年]](昭和7年)の金輸出禁止以後、金兌換も停止され管理通貨制度に移行した。
 
[[第二次世界大戦]]後、金融緊急措置令により6種類の紙幣が発行された。これをA券とよび、以後、B券、C券、D券が発行された。