「ウルグアイの歴史」の版間の差分

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==概要==
 
[[先コロンブス期]]の現在のウルグアイに相当する地域には、[[狩猟]]民族の[[チャルーア人]]や、農耕民族の[[グアラニー人]]が居住していた。[[1516年]]にこの地域を最初に訪れた[[ヨーロッパ]]人は[[スペイン]]の[[フアン・ディアス・デ・ソリス]]であった。[[ラプラタ川]]の東岸に位置したウルグアイは、植民地時代には[[バンダ・オリエンタル]]と呼ばれ、他の[[インディアス]]植民地に比べると相対的に開発が進まないまま、北方の[[ブラジル]]から進出してきた[[ポルトガル人]]と、[[ブエノスアイレス]]を拠点にする[[スペイン人]]の争奪の対象となり、[[1680年]]にポルトガルが建設した[[コロニア・ド・サクラメント]]と[[1726年]]にスペインが建設した[[モンテビデオ]]が屡々火花を散らした。[[19世紀]]に入り、[[ラテンアメリカ]]諸国の[[独立運動]]が進むと、[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]の一部であったバンダ・オリエンタルには、ブエノスアイレス主導の独立運動に対して旧副王領全体の独立運動の主導権を握りかけた{{仮リンク|ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス|en|José Gervasio Artigas}}が登場したが、アルティーガスが[[1820年]]に[[ポルトガル軍]]に敗れた後は、この地域の自立的な独立運動は進まず、[[1820年代]]の[[アルゼンチン・ブシスプジルティーナ戦争]]の帰結として、[[イギリス]]の調停によって[[1828年]]に'''ウルグアイ東方共和国'''として独立を達成した。独立後も長らく[[大戦争]](1839年 - 1851年)のように、国内の親アルゼンチン派の[[国民党 (ウルグアイ)|ブランコ党]]と親ブラジル派の[[コロラド党 (ウルグアイ)|コロラド党]]の内乱が続き、また、幾度となく続いたウルグアイの内乱は[[パラグアイ]]の[[三国同盟戦争]](1864年 - 1870年)の一因ともなった。このように不安定だったウルグアイが安定した統治を確立するのは[[20世紀]]初頭の[[ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス]]大統領の大改革の後であり、以後20世紀前半のウルグアイは「南アメリカの[[スイス]]」とも評される稀有な[[民主主義]][[国家]]となった。しかしながら、[[1955年]]よりそれまでの一次産品輸出志向型経済が行き詰まりを迎え、[[1960年代]]には深刻化する経済危機を背景に[[都市ゲリラ]]、[[トゥパマロス]]が活動するようになり、[[1973年]]にトゥパマロス鎮圧を果たした[[ウルグアイの軍事|軍部]]によって[[クーデター]]が実施され、長らく民主主義の伝統を保っていたウルグアイの民主体制は崩壊した。クーデター後、軍事政権は[[ネオリベラリズム]]政策と強権統治に訴えたが、このような統治を望まなかったウルグアイ人およそ50万人が国を捨てて出国し、更に軍政を合法化しようとした[[1981年]]の国民投票が否決されたこともあって、[[1985年]]に民政移管した。民政移管後暫くは19世紀以来のコロラド党とブランコ党の[[二大政党制]]が継続したものの、2005年の大統領選挙では[[中道左派]]政党[[拡大戦線 (ウルグアイ)|拡大戦線]]の[[タバレ・バスケス]]が当選し、ウルグアイの二大政党制に終止符を打った。
 
== 先コロンブス期 (先史時代-16世紀)==