「戊辰戦争」の版間の差分

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{{main|白石会議}}
閏4月20日、仙台藩は新政府軍が庄内藩を攻撃するため出陣していった留守中にをつき、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵(長州藩)を白石で捕縛して処刑した。さらに仙台藩は、九条総督と醍醐参謀を仙台城下に軟禁した。
 
これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した[[越後長岡藩|長岡藩]]ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって[[奥羽越列藩同盟]]が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。
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:* [[下手渡藩]] - 藩主・[[立花種恭]]が入京した後に、既に新政府に恭順していた事実を隠して列藩同盟に参加。後にその事実が発覚して下手渡の陣屋が仙台藩に攻撃されたため、旧領である筑後国三池に陣屋を戻して[[三池藩]]を立藩。石高は1万石から変わらず。
 
明治2年([[1869年]])5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として、仙台藩首席家老・[[但木成行]]、仙台藩江戸詰め家老・[[坂英力]]、会津藩家老・[[萱野長修]]は東京で、盛岡藩家老・[[楢山佐渡]]は盛岡で、[[刎首刑]]に処された。続いて仙台藩家老の[[玉虫左太夫]]と[[若生文十郎]]が、[[切腹]]させられた。しかし、仙台藩主戦派のイデオローグである思想家・[[大槻磐渓]]は、死を免れた。仙台藩の[[大槻磐渓|伊達氏]]は、34万石の減封という全国の諸大名の中で最も過酷な処分を受けた。これが仙台藩による北海道開拓へとつながってゆく。仙台藩は秩禄が減って困窮した仙台藩士家臣団を救うために、北海道への入植を行った。仙台藩は新政府と共に[[坂英力|道庁]]所在地の[[坂英力|札幌市]]を開拓したほか、単独で[[坂英力|伊達市]]などを開拓した。こうして仙台藩は、北海道開拓の歴に多大な功績を遺した。
 
会津藩と庄内藩については対照的な結果となった。会津藩は斗南3万石に転封となった。明治2年8月、当時若松県大参事だった[[岡谷繁実]]による猪苗代での会津藩5万石の再興の提言を受け、明治政府は明治2年9月11日に会津松平家を3万石で存続させることを許し、11月3日に封地を陸奥に決定した。斗南は元々盛岡藩時代より米農家以外は金・銭での納税が認められている土地で、実際に年貢として納められた米は7,310石だった。収容能力を超えて移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や日本国外に散る者もいた。