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スメタナは自作にボヘミアのさまざまな民族舞曲を取り入れたが、とくに好んだのが[[ハプスブルク家]]の圧制に対する抵抗を象徴するポルカで、おびただしい作品を書いている<ref>パオラッチ(2017) p.170</ref>。
 
一方当時ボヘミアを支配していた[[オーストリア帝国]]の首都[[ウィーン]]でもポルカは流行し、[[ヨハン・シュトラウス2世]]は160曲以上のポルカを書いた。『[[トリッチ・トラッチ・ポルカ]]』、『[[ピツィカート・ポルカ]]』([[ヨーゼフ・シュトラウス|ヨーゼフ]]との合作)などはよく知られる。当時のポルカは[[ワルツ]]と同様に2人がペアになって踊るものだったが、抱き合って旋回するワルツがしばしば非難されたのに対し、素朴で明るく健全なポルカは19世紀のヨーロッパで広く受け入れられた<ref>パオラッチ(2017) p.126</ref>。
 
1950年代後半には、[[ドイツ]]の[[ウィル・グラーエ]]らの演奏により、「ビア樽ポルカ」(Beer Barrel Polka)や「リヒテンシュタインポルカ」 (Liechtensteiner Polka) などが[[ヒットパレード]]として世界的な流行となり、[[バイエルン州|南ドイツ]]や世界各地で行われる[[ビール祭り]]「[[オクトーバーフェスト]]」にも好んで演奏されている。