「ニューヨーク市地下鉄」の版間の差分

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建設にあたって、ビーチは馬車業者や政敵で当時市政を牛耳っていた[[タマニー協会]]の「ボス」こと[[:en:William M. Tweed|ウィリアム・M・トウィード]]の妨害を避けるため、郵便物用の気送管と偽って許可を取得し人目につかないよう夜間にひっそりと工事を進めた<ref name="WSS-162" /><ref name="WSS-164" /><ref name="NYUC-70" /><ref name="WHCT-26" />。トンネルは[[ニューヨーク市庁舎|市庁舎]]の真横、[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]とワーレン・ストリートの交差点からマレー・ストリートまでの1ブロックだけで延長はわずか312フィート(95メートル)しかなかったが、注目を集めるため駅の待合室には豪華な装飾が施されていた<ref name="WSS-164" /><ref name="WSS-168" /><ref name="WHCT-26" /><ref name="WHCT-28" />。
 
ビーチが[[1870年]][[2月28日]]にトンネルを一般公開すると地下鉄はたちまち市民の注目の的となり、[[1873年]]4月にはトンネルを[[セントラル・パーク]]まで延長する計画が許可された<ref name="WSS-168" /><ref name="WSS-170" /><ref name="NYUC-72" /><ref name="WHCT-28" />。しかし同年に発生した[[1873年恐慌]]の影響で必要な資金を調達できなくなったこと、また空気圧による制御が難しいという技術的な問題があったことなどから支持を失い、資金を使い果たしたビーチは[[1874年]]に運行を停止しトンネルを封鎖した<ref name="WSS-170" /><ref name="WSS-172" /><ref name="NYUC-72" /><ref name="WHCT-28" />。その後ビーチの地下鉄は人々から忘れ去られたが、[[1912年]]になり[[BMTブロードウェイ線]][[:en:City Hallシティ・ホール駅 (BMT Broadway Lineブロードウェイ線)|シティホール駅]]の建設現場で偶然発見され、取り壊されて同駅の一部となった<ref name="WSS-172" /><ref name="NYUC-74" /><ref name="WHCT-28" />。
 
==== 高架鉄道の発達 ====