「大宮敏充」の版間の差分

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[[1942年]]に地元浅草にて公演を開始。河合キネマという小さい映画館に出演して人気を得る。評判を聞きつけた[[吉本興業]]([[東京吉本]])から声がかかり、吉本の東京の劇場に出演するようになった。しかし当時の吉本は浅草だけでなく、渋谷や横浜にも劇場を持っていたため、そちらにも出演しなければならず、浅草にじっと落ち着けないのが悩みだったという<ref>大宮敏充『デン助 浅草 泣き笑い人生』三笠書房、1973年、81頁。</ref>。そうした中、[[1944年]]に松竹に招かれ、浅草で新設の[[松竹演芸場]]に出演するようになる。しかし出演5日目に召集令状が来て出征。東京から小樽に向かい、そこから千島列島のホロムシロ島に送られる予定だったが、その時の部隊副官が、奇しくも吉本興業の支配人をやっていた人物だったため、戦場に送られず、小樽の物品販売所に回された。ホロムシロ島へ送られた連中は、島へ着く直前に魚雷でやられ、1500人全員が全滅したという。
 
戦後復員。[[1946年]]に「デン助劇団」を結成。浅草・[[浅草松竹演芸場]]を拠点に自ら演出・脚本・主演(役名は木村デン助)をこなすなど、浅草演芸界の代表的な存在にまで登りつめた。この松竹演芸場での活躍は[[1973年]]の劇団解散まで続き、浅草演芸界の華であった。また、NET(現:[[テレビ朝日]])で放映されていた『[[デン助劇場]]』は[[1959年]][[4月11日]]から開始され好評を博し[[1972年]][[3月25日]]まで続いた。番組では「デン助人形」がプレゼントされていた。萩本欽一は高校時代弟子になろうとしたがデン助に「高校を卒業しな」と諭され、高校卒業の日にデン助の元へ急ごうと胸を踊らせていたがたまたま会った東洋劇場の支配人にネガティブな事ばかり言われて気持ちが挫け断念した。もしそのまま行ってたら2代目を継いでコント55号は誕生してなかったかもしれないと回想している。
 
劇団解散後、晩年はテレビで俳優などをこなしていたが持病の[[糖尿病]]が悪化して[[1975年]]11月に入院し、1976年に[[脳卒中]]と[[肺炎]]のため死去。{{没年齢|1913|4|13|1976|12|23}}。