「大蓮寺 (京都市)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
「真如堂に訴えられて」等の文章の追加と校正。
編集の要約なし
3行目:
[[File:Dairenji.jpg|thumb|内部の様子]]
[[File:Hashiri-bosan.jpg|thumb|門前にある走り坊主の看板。足腰健常のお守りにもなっている]]
[[File:大蓮寺.jpg|200px|right]]
 
==歴史==
この寺は、[[慶長]]5年([[1600年]])深誉が現在の京都市[[下京区]]に創建したのに始まる。伝承によると、慶長5年のある日、深誉は[[伏見]]の地で金色に輝く阿弥陀如来を見出し、誰も供養する者がないことをもったいなく思い、持ち帰って五条に仏堂を建て安置した、これが大蓮寺であるという。しかし、後になってこの阿弥陀如来は真如堂([[真正極楽寺]])の阿弥陀如来であることがわかり、真如堂に訴えられて返還することになった。残念に思った深誉が二十一日間の[[念仏]]を修したところ、最後の夜に旅の僧があらわれ共に念仏するが、次の朝には旅の僧の姿はなく、その代わりに本尊の阿弥陀如来が分かれて二体になっていた。一体は真如堂に返還し、もう一体はこれまで通り、大蓮寺の本尊として祀った。
14行目:
*阿弥陀如来立像
:真如堂(真正極楽寺)の阿弥陀如来の分身とされ、[[円仁]](慈覚大師)作の伝承をもつ。女人救済、安産に利益のある阿弥陀像として信仰されている。
=== 感神院(祇園社)の仏像 ===
*十一面観音立像
:[[祇園社]](現・[[八坂神社]])観音堂の旧仏。カヤ材の一木造りで、10世紀の作。[[洛陽三十三所観音霊場]]第8番札所。
*薬師如来立像(重要文化財)
:かつて[[祇園社]]の[[本地仏]]であったもので、[[祇園社]]の境内にあった観慶寺薬師堂に安置されていたが、明治の[[廃仏毀釈]]・神仏分離で観慶寺が廃絶した後、大蓮寺に移された。[[定朝]]様の温和な作風の像で[[平安時代]]後期の作風を示し、祇園社が[[延久]]2年([[1070年]])の火災で焼失した直後に造立されたものと推定される。作者は定朝の弟子で[[院派]]・[[慶派]]の祖である[[覚助]]と推定する説が有力である。像高192cm。
*[[夜叉]][[仏の一覧#明王部|明王]]立像
:[[祇園社]]の旧仏。洛陽十二社中の一とされ、厄除の利益があるという。
 
29 ⟶ 30行目:
 
[[京都市営バス]]東山二条・東山仁王門バス停より徒歩3分
 
== 参考文献 ==
*「新指定の文化財」『月刊文化財』358号、第一法規、1993
38行目:
*[[走り坊主]]
*[[洛陽三十三所観音霊場]]
 
 
== 外部リンク ==
49 ⟶ 48行目:
[[Category:京都市左京区の寺]]
[[Category:阿弥陀像]]
[[Category:祇園信仰]]
[[Category:観音像]]
[[Category:薬師如来]]
[[Category:祇園信仰夜叉]]
[[Category:京都市の重要文化財]]