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ティデ・ツグツェン王の時代は唐や西域から仏僧を拉致或は招き、また寺院の建造が度々行われるなど積極的に仏教が布教されていたが、[[754年]]に大論(宰相)であった功臣の[[ランメシク]]({{lang-bo|ལང་མྱེསཟིགས}} {{lang|en|lang myessigs}}、{{lang-zh-short|朗梅色}})と{{仮リンク|バルドンツァブ|en|Bal Kyisang Dongtsap}}({{lang-bo|འབལ་ལྡོང་ཙབ}} {{lang|en|hbal ldong tsab}}、{{lang-zh-short|末東則布}})が謀反し、[[755年]]にティデ・ツグツェン王が近衛兵によって殺害され{{仮リンク|スムパ|zh|蘇毗|en|Sumpa|label=スムパ族}}(蘇毗)も反乱を起こした。ティデ・ツグツェンと金城公主の子[[ティソン・デツェン]]<ref>岩尾,2010,p.19</ref>(在位:[[755年]] - [[797年]])は乱を鎮圧して蘇毗族も滅ぼし王位を継ぐが、実権は大論(宰相)[[マシャン・ジョンバジェ]]({{lang-bo|ཞང་བློན་མ་ཞང་གྲོམ་པ་སྐྱེས}}、{{lang-zh-short|瑪祥仲巴傑}})を筆頭とする外戚<ref>大半のチベットの歴史書では金城公主の子とされているが、発見された文書に残る金城公主没後の生誕となるので、ティソン・デツェンを権威付けるため唐帝室に肖ったとみられる。</ref>が握っており、仏教を崇拝していた前君の横死を理由に外国人の高僧を国外へ追放し仏教を法律で禁じた。
 
===唐との戦争とサムイェ寺の宗論===
[[755年]]に唐で[[安史の乱]]が起こると唐朝廷へ支援を申し出る使者に内情を探らせると共に連年唐の領土で略奪を繰り返していたが、[[761年]]にティソン・デツェン王は外戚の専横を抑制して親政を始めると共に仏教禁令を解き、今度はインドから高僧を招き、[[四川省|四川]]から[[北宗]]禅僧の{{仮リンク|金和尚|en|Kim Ho-shang}}を招聘。後にこの両派は対立し、[[サムイェー寺の宗論]]を起こす。[[763年]]本格的に唐領へ軍を進めると大した抵抗を受けること無く唐西部の河西、隴右地区(現:[[青海省]]東部および[[甘粛省]])の6州の降伏を受け占領した。[[763年]]、唐の首都長安へ兵を進めると、ここでも戦闘を交える事無く長安を占領した。[[763年]]10月、唐の[[長安]]を占領し{{仮リンク|金城公主|zh|金城公主}}の甥・{{仮リンク|李承宏|zh|李承宏|en|Li Chenghong}}を帝位に据えるが、陣中に疫病が流行り唐が反撃に出ると、半月後に長安から撤退した(この戦役を記念するために「[[雪の外碑]]」が建てられる)。これ以降、吐蕃は西域で唐に対して優勢を保った。
 
[[774年]]、王はインドから高僧[[シャーンタラクシタ]]と[[パドマサンバヴァ]]を招いて仏教を復興させた。[[779年]]、吐蕃と属国の[[南詔]]の{{仮リンク|異牟尋|zh|異牟尋|vi|Mông Dị Mâu Tầm}}(在位:[[779年]] - [[808年]])王は20万の大軍をもって[[四川省|四川]]の[[成都]]に侵攻したが、統制を回復していた唐軍に撃退された。同年、修行寺院である[[サムエー寺]]が落成し、経典解説や説法などの活動が開始され多くの仏典が翻訳された。王は、等級に応じて僧侶に食物や生活用品を支給、さらに王子,后妃,臣民の前で永遠に仏法を行うことを誓約し、王子たちには仏法を学ぶことが義務づけられ、仏教が厚く保護された。
 
[[781年]]から長年にわたる[[沙州]]([[敦煌市|敦煌]])包囲の末、[[786年]]に占領に成功する。その地の高僧[[摩訶衍]]を吐蕃に招聘した。[[787年]]に[[シャーンタラクシタ]]が死去すると、インド仏教系の僧と中国系仏教の[[禅宗]]との関係が悪化。禅宗を禁教にさせることに成功した。[[790年]]、ジュンガル盆地の白突厥やカルルクと南シベリアのキルギス部を誘って、唐・ウイグル連合軍の居る[[北庭都護府]]を占拠すると、ウイグル・唐連合軍との50年に渡る戦争に突入。[[791年]]、摩訶衍が皇后(盧氏)を出家させると、[[792年]]に摩訶衍はティソン・デツェン王の勅命によって、チベットの地での布教を許可された。また、禅の信徒の抵抗で[[794年]]に禁教も解除された。これに危機感を募らせたインド系仏教はインドから高僧[[カマラシーラ]]を招聘した。王は[[摩訶衍]]とカマラシーラに命じて、サムイェー寺で“悟り”について法論を闘わせた([[サムイェー寺の宗論]]、[[792年]] - [[794年]])。その結果、敗れた中国系仏教の[[禅宗]]頓門派の教えが禁じられた。[[797年]]頃、摩訶衍は敦煌へ放逐された。
 
===仏教の国教化を巡る対立と廃仏令===