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その子、[[ティツク・デツェン]]{{Sfn|山口瑞鳳|1988|pp=27,47}}(別名:レルパチェン)王が王位を継いだ。[[821年]]、吐蕃は長安に使節を送り、唐の大臣たちと和解の盟約([[長慶会盟]])を行う。[[822年]]、唐の使節[[劉元鼎]]がラサに到り、吐蕃の大論(宰相)たちと盟約を行い、翌年、ラサの[[大昭寺]]の前に[[唐蕃会盟碑]]を建立した。これによって吐藩と唐の間で和解が成立する。
 
このころ、チベットは仏教を国教とし始め、[[828年]]、ティツク・デツェン王の命令により[[大蔵経]](一切経)をチベット語に翻訳、編纂を始めた。これらの大蔵経の目録はサムイェ、パンタン等に保存されている。これがチベット語での仏教経典の収集整理のはじまりになった。さらに、七戸の民で僧侶一人を養い、僧に不敬を働く者を厳罰に処す命令を下した。しかし、これは民衆の不満を引き起こした。
 
[[840年]]頃には河西・隴右・西域の全域を奪還され、ウイグルと講和したが、吐蕃の支配層に内紛が発生した。[[841年]]、ティツク・デツェン王は大論(宰相){{仮リンク|バー・ギャルトレ|en|We Gyaltore Taknye}}({{lang-bo|དབས་རྒྱལ་ཏོ་རེ}} {{lang|en|dbavs rgyal to re}}、{{lang-zh-short|韋・甲多熱}}、別名:結都那 ウェイダナジェン)らに絞殺され、その兄弟[[ラン・ダルマ]]王が即位する。[[843年]]、ラン・ダルマ王は仏教に反対する大論(宰相)ウェイダナジェンに扇動され廃仏令を下し、仏寺や仏像を封鎖破壊し僧に還俗を迫り、反抗する高僧を殺害、経典や文物を焼却した。これに対し仏教を信仰する人々は不満を高まらせた。
 
[[842年|842]]([[846年|846?]]?、ラン・ダルマ王は、変装して近づいた仏僧の{{仮リンク|ラルン・パルギ・ドルジェ|zh|拉壠貝吉多吉|en|Lhalung Pelgyi Dorje}}に胸を矢で射られて暗殺される。
 
===南北分裂と民衆蜂起===