「おでん」の版間の差分

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ヤマサ (会話 | 投稿記録)
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江戸時代初期、江戸の市場に入津する醤油の多くは上方からのものであり、[[享保|享保期]]の調査によれば70%以上が上方のものであった<ref>長谷川彰「醤油醸造業史研究の回顧と展望」(桃山学院大学経済経営論集.1992.03)[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006965468][http://ci.nii.ac.jp/els/110006965468.pdf?id=ART0008873621&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1469644406&cp=]PDF-P.12-13</ref>。これが1800年代に入ると江戸市場周辺の地廻り経済圏から供給される醤油の比率が高まり、幕末の1856年には上方醤油は5.6%となった。
元禄期に銚子ではじまった醤油醸造は<ref>長谷川彰「醤油醸造業史研究の回顧と展望」(桃山学院大学経済経営論集.1992.03)[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006965468][http://ci.nii.ac.jp/els/110006965468.pdf?id=ART0008873621&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1469644406&cp=]PDF-P.12-13</ref>、やがて江戸経済圏の発展とともに香りと味の良い[[醤油]]を盛んに供給するようになり、[[削り節]]に醤油や[[砂糖]]、[[みりん]]を入れた甘い汁で煮込んだ「おでん」が作られるようになった。外食産業が盛んであった江戸では、「おでん燗酒、甘いと辛い、あんばいよしよし」の掛け声で売る「おでん かんざけ」と書いた[[暖簾|のれん]]を掲げたおでんの[[振売]]や[[屋台]]が流行したが、{{要出典範囲|「甘い」は煮込みおでんで、「辛い」は[[味噌田楽]]である|date=2016年7月|title=甘いがおでん、辛いが燗酒かもしれない。}}。このころには、「[[半片|ハンペン]]」も種として使用されるようになった。江戸ではかつお節の[[削り節]]が利用されるようになっていて、昆布と合わせて出汁とされた。日本橋室町界隈は魚河岸が近く、その後に移転した「築地」にかけて、創業元禄元年(1668年)の老舗店が存在している<ref>興津要、『江戸味覚歳時記』、時事通信</ref>。『日本食物史』には、戦後の闇市で「うどんや[[焼酎#カストリ|カストリ]]、おでん」を売っていると記述されている。
 
[[上方]]では、田楽が「お座敷おでん」として客座敷に出されるようになったが、種を[[コンブ|昆布]]だしの中で温めて甘味噌をつけて食べる「焼かない田楽」<ref name="kbn">{{cite web |url=http://www.kibun.co.jp/knowledge/oden/history/rekishi/ |title=歴史:おでんの歴史とこれから |work=【おでん】教室 紀文アカデミー |publisher=紀文食品 |accessdate=2015-12-13 |author=奥村彪生 }}</ref> と区別するために「'''関東炊き/関東煮'''」('''かんとだき''')と呼んだ。その後の関東煮は、昆布・クジラ・牛すじなどでダシをとったり、薄口醤油を用いたりと、関西風のアレンジが加えられていった。これを「関西炊」と呼ぶ人もいる<ref name="kbn" />。[[大阪市|大坂]]の天満ではタコを甘辛く煮たものが人気となっておりこれを「関東煮」と呼んでおり、おでんに対する関東煮の語源については「かんとうふ煮」説や[[中国]][[広東省|広東]]の煮込み料理<ref>[[潮州料理]]に「滷味」(ルーウェイ)と呼ばれる[[厚揚げ]]、[[鶏卵]]、[[ガチョウ]]肉などを煮込む類似料理がある。また、[[香港]]には「車仔麺」と呼ばれる、おでんに似た各種の煮た具を選んで乗せる麺類がある。</ref>に由来する「広東煮」説もある<ref name="takoume">{{cite web |url=http://www.takoume.com/rekishi.html |publisher=たこ梅 |title=関東煮・おでんの歴史 |accessdate=2015-2-13 }}</ref> が定かではない。