「徳川家達」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎栄典・授章・授賞: テンプレートのエラー修正
タグ: 2017年版ソースエディター
全体に書誌情報を補足。→‎人物: 内容を整理して、書き下し文に変更。写真の配置を変更。
25行目:
=== 幼少期 ===
[[ファイル:Iesato Tokugawa.jpg|thumb|Left|150px|幼少期の家達]]
[[江戸城]]田安屋敷において、[[田安徳川家|田安家]]の[[徳川慶頼]]の三男として誕生した。慶頼は14代将軍・[[徳川家茂]]の[[将軍後見職]]であり、幕府の要職にあった。母は高井武子{{Refnest|group="注釈"|生母の武子は[[田安徳川家]]家臣の津田栄七の長女で、高井主水の養女となった。武子の実妹の初子が[[津田梅子]]の母親であるため、家達と梅子は従兄妹にあたる。}}。家達は家茂および13代将軍・[[徳川家定]]の従弟にあたる。
 
[[元治]]2年([[1865年]])2月5日、実兄・[[徳川寿千代|寿千代]]の夭逝により[[田安徳川家]]を相続する。[[慶応]]2年([[1866年]])に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および[[大奥]]の[[天璋院]]や[[御年寄]]・[[瀧山]]らは家茂の遺言通り、[[徳川将軍家|徳川宗家]]に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また[[和宮親子内親王|静寛院宮]]、[[雄藩]]大名らが反対した結果、[[一橋徳川家|一橋家]]の[[徳川慶喜]]が15代将軍に就任した。
46行目:
明治10年([[1877年]])、[[イギリス]]の[[イートン・カレッジ]]に留学。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。[[オックスフォード大学]]か[[ケンブリッジ大学]]への進学を目指していたが、婚儀を心待ちにしていた[[天璋院]]の意向もあって、明治15年([[1882年]])10月に帰国した。翌11月6日に[[徳川泰子|近衛泰子]]と結婚、明治17年([[1884年]])に嫡男[[徳川家正|家正]]が誕生する。
 
明治17年(1884年)の[[華族令]]公布によって[[公爵]]を授けられ<ref name="koshaku"/>、明治23年([[1890年]])の[[帝国議会]]開設と同時に[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員になった([[火曜会]]所属)。明治36年([[1903年]])12月4日<ref name=gicho>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19031205 |number= 6129 | chapter= 帝国議会 - 貴族院 |page= 149 |date= 1903年12月05日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949438 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号15] 明治36年12月4日 貴族院令第11条により貴族院議長に任ず。従二位勲四等公爵 徳川家達</ref>から昭和8年([[1933年]])6月9日<ref name=fukugicho>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19330610 |number= 1931 | chapter= 帝国議会 - 貴族院 |page= 323 | date= 1933年06月10日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958403 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号36] 昭和8年6月9日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。貴族院議長公爵 徳川家達</ref>まで、延べ31年の長きにわたって貴族院議長を務めた<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19101206 |number= 8238 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 193 | date= 1910年12月6日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951591 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号9] 明治43年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家達</ref><ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19171206 |number= 1604 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 200 | date= 1917年12月06日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953717 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号13] 大正6年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家逹</ref><ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19241206 |number= 3688 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 200 | date= 1924年12月06日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955836 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号6] 大正13年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家達</ref><ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19311207 |number= 1482 | chapter= 帝國議会 - 貴族院 |page= 199 | date= 1931年12月07日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957950 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号6] 昭和6年12月5日 貴族院令第11条により貴族院副議長に任ず。正二位勲一等公爵 徳川家達</ref>。同じく貴族院副議長を長く務めた[[黒田長成]]とともに、「万年議長・万年副議長」と呼ばれた。[[大正]]3年([[1914年]])3月24日、[[シーメンス事件]]によって[[第1次山本内閣]]が総辞職。同月27日には後継首班の正式候補に挙げられたが、「未だ徳川が政権に表立って関わるのは遠慮すべき」として2日後に辞退。このことに関して当時の[[朝日新聞]]は「高貴でおおらかな家達氏は、政治の濁流にもまれるべきではない」と賛意を表明した。家達は政界でも注目される存在であり、要人の千駄ヶ谷訪問も多かった。
 
[[1922年]]、[[海軍省|海軍大臣]]の[[加藤友三郎]]や[[特命全権大使|駐米大使]]の[[幣原喜重郎]]などとともに[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]全権を務め、イギリス・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した。この決定は欧米列強の軍事的緊張を是正して国際関係を安定化させることが目的だったが、国内では海軍[[軍令部]]や[[右翼]]から「軟弱外交」との批判を受けた。
 
大正2年([[1913年]])に[[恩賜財団済生会]]会長、大正4年([[1915年]])に[[明治神宮]]奉賛会会長に就任。大正10年([[1921年]])には[[大日本蹴球協会]](現在の[[日本サッカー協会]])の名誉会長として、その発足に立ち会っている<ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=2 今村次吉] 日本サッカー人物史参照</ref>
 
=== 昭和時代 ===
昭和4年([[1929年]])11月、第6代[[日本赤十字社]]社長に就任した、終生、務める。昭和8年([[1933年]])6月9日、貴族院議長を辞したが、その後も貴族院議員は務め続けた。同年8月、翌年東京で開催される予定の第15回赤十字・赤新月国際大会への協力を求めるため、欧米へ発った。昭和9年([[1934年]])4月5日、[[横浜港]]に帰るまで、10か月にも及ぶ長い旅だった。なお、この国際大会は[[アジア]]初の国際会議となった。さらに昭和11年([[1936年]])12月には、[[東京オリンピック (1940年)|1940年の東京オリンピック]]招致成功を受けて、[[東京市]]や大日本体育会などを中心として設立された「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。
 
昭和15年(1940年)6月5日、76歳で死去した。死後、[[大勲位菊花大綬章]]を受章した。
 
==人物==
[[File:Prince Tokugawa Iesato.jpg|thumb|250pxleft|200px|壮の家達]]
* 生母の武子は[[田安徳川家]]家臣の津田栄七の長女で、高井主水の養女となった。武子の実妹の初子が[[津田梅子]]の母親であるため、家達と梅子は従兄妹にあたる。
家達の近習を務めた洋画家の[[川村清雄]]によると、家達は生来おとなしかった。幼少で静岡に移住し、[[静岡浅間神社|浅間神社]]の[[神主]]宅に移り住むことになるなど周囲の環境が激変しても、泣いた所は見たことはなかったという{{Refnest|group="注釈"|川村清雄の談話部分<ref>{{cite book|和書|author1= 川村清雄 [談] |author2= 河野桐谷 |chapter= 慶喜公と亀之助様 |title= 漫談 江戸は過ぎる |publisher= 萬里閣書房 |ncid= BN08408462 |year= 1929}}</ref><ref>{{cite book|和書|author= 河野桐谷 [編] |title=史話 江戸は過ぎる |publisher= [[新人物往来社]] |year= 1969 |ncid= BN01743582 |edition= 復刊}}</ref>は図録『静岡の美術VII 川村清雄展』にも収録<ref>{{cite book|和書|author1= [[静岡県立美術館]] |author2= 川村清雄 |title = 川村清雄展 : 明治洋画の先駆者として独自の画業を築いた知られざる巨匠の全貌 |publisher = 静岡県立美術館 |year = 1994 |series= 静岡の美術 |number= 7 |ncid= BN1236959|pages= 151-152}}</ref>。}}。また[[勝海舟]] は「三位様(家達)は、原来人に可愛がられる室で、学問も相応にあり、至極正直で勉強家だからお上にも始終お目を懸け下さるよ。このごろはあんなに日増しに肥満せられるから、おれは十分に御運動なさいと勧め申したが、その通り昨今は絶えず運動しておられるようだ。流石に征夷大将軍の血脈を受けておられるだけあって、どことなく人と違う所があるよ」と述べている<ref>{{cite book|和書|author = 勝安芳 |others= 海舟全集刊行会 [編] |title = 像及寫眞 ; 海舟印譜 ; 海舟書簡 ; 亡友帖 ; 流芳遺墨 ; 追賛一話 ; 清譚と逸話 ; 飛川歌集 ; 海舟詩稿 ; 隨筆補遺 ; 海舟年譜 | publisher = 改造社 | year = 1929 | series = 海舟全集 |volume = 10 | ncid= BN05361067}}</ref>。
[[File:Tokugawa Iesato 1927.jpg|thumb|250px|東京大相撲大阪場所を観戦、中央が家達]]
[[File:Prince Tokugawa Iesato.jpg|thumb|250px|晩年の家達]]
* 家達の近習を務めた洋画家の[[川村清雄]]によると、家達は生来おとなしかった。幼少で静岡に移住し、[[静岡浅間神社|浅間神社]]の[[神主]]宅に移り住むことになるなど周囲の環境が激変しても、泣いた所は見たことはなかったという<ref>川村清雄談「慶喜公と亀之助様」『漫談 江戸は過ぎる』(萬里閣書房、1929年、所収)。後に『史話 江戸は過ぎる』([[新人物往来社]]、1969年)の名で復刊。清雄の談話部分は『静岡の美術Ⅶ 川村清雄展』図録([[静岡県立美術館]]、1994年)にも収録151-152頁。</ref>。
* 趣味の[[囲碁]]はアマチュア・トップクラスで、大正15年([[1926年]])に[[喜多文子]]五段に「二子のハンディ」の対局で勝利した棋譜が残されている。
* 「十六代様」と呼ばれたが、家達自身は「明治以後の新しい徳川家の初代」だという意識が強く、将軍家の十六代ではないと公言していた。
* 相撲好きで[[国技館]]の常連として有名であった。[[野村胡堂]]が贔屓の力士がいないように思えるとたずねたところ、好きな力士はいるが「家来や側近の者たちに、差別的な顔を見せてはならぬ。かりに、心の中で好き嫌いがあったとしても、絶対に色を表してはならない。こういう習慣で育ってきたのです」と答えた<ref>『[[胡堂百話]]』 40.平次の旅</ref>。大正11年、[[イギリス]]の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード]]王太子来日時、自宅に招き、[[両国国技館]]から四本柱を運ばせ、[[横綱]]の[[大錦卯一郎|大錦]]や[[栃木山守也|栃木山]]ら十数名の力士を招いて、相撲を披露した。<ref>『殿さまは明治をどう生きたか』、2014年、河合敦 洋泉社 ISBN 978-4-8003-0379-0</ref>
* [[ピアノ]]や[[琴]]のような、うるさく音がするものを嫌った。孫の[[松平豊子|豊子]]は、「外国でおじじ様と演奏会などに行くでしょ。そうすると、なるべく(舞台から)遠い所へ行こうっておっしゃる。」と回想している。妻の泰子は、家達のいないところで孫に琴などを教えたという。
* [[同性愛]]の指向があり、華族会館の給仕を鶏姦し<ref>佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)</ref>、そのことが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年([[1917年]])頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程である)を支払ったことがある。このため、家達の実弟の[[徳川頼倫]]は[[牧野伸顕]]に「兄が恥を知らず、今なお公職を執り、引退の考えがないのは困ったものだ」と嘆いたことがあった。[[倉富勇三郎]]が牧野から聞いたところによると、家達の同性愛指向は華族間では知る者も多く、[[伯爵]]・[[松浦厚]]はこれに基づき家達の[[学習院]]総裁就任の話を潰したことがある<ref name="nagai">永井和「柳田國男、官界を去る」『立命館文学』第578号、2003年。</ref>。
* 貴族院議長時代、当時貴族院書記官長だった[[柳田國男]]と仲が悪く、これが原因で柳田は貴族院を辞した。両者の不仲の理由について、潔癖な柳田が家達の女性関係を咎めたためであろうと[[岡谷公二]]は推測している<ref>岡谷公二『貴族院書記官長柳田國男』</ref>。一方、永井和は、家達が自らの同性愛スキャンダルを柳田に暴露されるのではないかと恐れていた可能性を指摘している<ref name="nagai"></ref>。
* 初代[[東京市長]]最有力候補と目されたが固辞したことがある。
* 来孫にあたる[[徳川家広]]は家達と[[徳川家茂]]が瓜二つな容姿をしていたことを挙げている<ref>セオリー「名家・名門の秘密」徳川家広インタビューより</ref>。
*[[勝海舟]] 「三位様(家達)は、原来人に可愛がられる室で、学問も相応にあり、至極正直で勉強家だからお上にも始終お目を懸け下さるよ。このごろはあんなに日増しに肥満せられるから、おれは十分に御運動なさいと勧め申したが、その通り昨今は絶えず運動しておられるようだ。流石に征夷大将軍の血脈を受けておられるだけあって、どことなく人と違う所があるよ」<ref>「海舟全集 第十巻」</ref>
 
「十六代様」と呼ばれたが、家達自身は「明治以後の新しい徳川家の初代」だという意識が強く、将軍家の十六代ではないと公言していた。初代[[東京市長]]最有力候補と目されたが固辞したことがある。来孫にあたる[[徳川家広]]は家達と[[徳川家茂]]が瓜二つな容姿をしていたことを挙げている<ref>{{cite magazine|和書|title = 名家・名門の秘密 : 「リアル・リッチの世界」決定版 | publisher = 講談社 | date = 2009-09 | series = セオリーmook | volume = 5 |ncid= BB01704815}}徳川家広のインタビュー。</ref>。
* 趣味の[[囲碁]]はアマチュア・トップクラスで、大正15年([[1926年]])に[[喜多文子]]五段に「二子のハンディ」の対局で勝利した棋譜が残されている。
 
* [[ピアノ]]や[[琴]]のような、うるさく音がするものを嫌った。孫の[[松平豊子|豊子]]は、「外国でおじじ様と演奏会などに行くでしょ。そうすると、なるべく(舞台から)遠い所へ行こうっておっしゃる。」と回想している。妻の泰子は、家達のいないところで孫に琴などを教えたという。
 
* [[同性愛]]の指向があり、華族会館の給仕を鶏姦し<ref>{{cite book|和書| author = 佐野 | title = 枢密院議長の日記』( | publisher = 講談社 |date = 2007-10 | series = 講談社現代新書 | number = 1911 | ncid= BA83405921}}</ref>、そのことが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年([[1917年]])頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程である)を支払ったことがある。このため、家達の実弟の[[徳川頼倫]]は[[牧野伸顕]]に「兄が恥を知らず、今なお公職を執り、引退の考えがないのは困ったものだ」と嘆いたことがあった。[[倉富勇三郎]]が牧野から聞いたところによると、家達の同性愛指向は華族間では知る者も多く、[[伯爵]]・[[松浦厚]]はこれに基づき家達の[[学習院]]総裁就任の話を潰したことがあるという<ref name="nagai">{{cite journal|和書|author= 永井和 |title= 柳田國男、官界を去る」『 |work= 立命館文学』第 |number= 578号、 |pages= 701-705 |url= http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/578pdf/nagai.pdf |format= pdf |accessdate= 2018-07-24 | date= 2003年。-02}}</ref>。
 
* 貴族院議長時代、当時貴族院書記官長だった[[柳田國男]]と仲が悪く、これが原因で柳田は貴族院を辞した。両者の不仲の理由について、潔癖な柳田が家達の女性関係を咎めたためであろうと[[岡谷公二]]は推測している<ref>岡谷公二『{{cite journal|和書|title= 貴族院書記官長 柳田國男 |author= 岡谷公二 |publisher= 筑摩書房 |ncid= BN01116797 |date=1985-07}}</ref>。一方、永井和は、家達が自らの同性愛スキャンダルを柳田に暴露されるのではないかと恐れていた可能性を指摘している<ref name="nagai"></ref>。
 
[[File:Tokugawa Iesato 1927.jpg|thumb|250px|東京大相撲大阪場所を観戦、中央が家達(1927年)]]
=== 家達とスポーツ ===
* 相撲好きで[[国技館]]の常連として有名であった。[[野村胡堂]]が贔屓の力士がいないように思えるとたずねたところ、好きな力士はいるが「家来や側近の者たちに、差別的な顔を見せてはならぬ。かりに、心の中で好き嫌いがあったとしても、絶対に色を表してはならない。こういう習慣で育ってきたのです」と答えた<ref>{{cite book|和書|author= 野村胡堂 |title= [[胡堂百話]] |chapter= 40.平次の旅 |year= 1981 |publisher= 中央公論社 |edition= 文庫}}</ref>。大正11年([[1922年]])、[[イギリス]]の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード]]王太子来日時自宅に招いた折には、[[両国国技館]]から四本柱を運ばせ、[[横綱]]の[[大錦卯一郎|大錦]]や[[栃木山守也|栃木山]]ら十数名の力士を招いて、呼んで相撲を披露した。ている<ref>{{cite book|和書|author= |title= 殿さま明治をどう生きた』、|ncid= BB15594103 |series= 歴史新書 |year=2014年、河合敦  |publisher= 洋泉社 ISBN |isbn= 978-4-8003-0379-0}}</ref>{{Refnest|徳川邸で行われた相撲の写真記録がある<ref>{{cite book|和書|chapter= 徳川公邸の台覧相撲(其1,其2) |title= 答礼使御来朝記念写真帖 中巻 |others= 大阪毎日新聞社 [編] |publisher= 東京日日新聞 |date= 1922-05 }}</ref><ref>{{cite journal|和書|title= 国立国会図書館所蔵写真帳・写真集の内容細目総覧 : 明治・大正編 |chapter= 第Ⅱ部 事項編 |page= 278 |author= 村上清子 |work= 参考書誌研究 |number= 33 |publisher= 国立国会図書館 |date= 1987-11-20 |page= }}</ref>。}}
大正10年([[1921年]])には[[大日本蹴球協会]](現在の[[日本サッカー協会]])の名誉会長として、その発足に立ち会っている{{Refnest|group="注釈"|大正10年(1921年)12月付で徳川家達はエリオット英国大使とともに、大日本蹴球協会名誉会長職に就いている<ref>{{cite journal|和書|title= 大正10年度会報 |number= 1 |publisher= 大日本蹴球協会|year= 1921}}</ref><ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=2 今村次吉] の「日本サッカー人物史」</ref>。}}。
 
[[東京オリンピック (1940年)|1940年の東京オリンピック]]招致が成功すると、[[国際オリンピック委員会|IOC]]委員であったことから昭和11年([[1936年]])12月に[[東京市]]や大日本体育会などを中心として設立された「第12回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。
=== 著作 ===
 
*{{cite book|和書|author = 徳川家達 | others= 徳川公繼宗七十年祝賀記念會 | title = 近世日本の儒學 : 徳川公繼宗七十年祝賀記念 | publisher = 岩波書店 | year = 1939 |ncid= BN01871389
}}
*{{cite book|和書|author1 = 田川大吉郎 |author2= 徳川家達 |others= 国際連盟協会| title = 國際聯盟講座 | publisher = 國際聯盟協會 |year= 1930 | series= 國際聯盟協會叢書 |number = 95 |ncid= BA78085311
 
}}
== 栄典・授章・授賞 ==
 
;位階
* [[1901年]](明治34年)[[12月20日]] - [[従二位]]<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19011221 |number= 5542 | chapter= 叙任及辞令 |page= 522 | date= 1901年12月21日| url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948843 |accessdate= 2018-07-24}} [コマ番号2]。従二位勲四等となる。</ref>
78 ⟶ 90行目:
 
;勲章等
* [[1884年]](明治17年)[[7月7日]] - [[公爵]]<ref name="koshaku">{{cite book|和書|title=官報|volume= 18840708 |number= 307 | chapter= 叙任 |page= 2 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2943511 | date= 1884年7月8日 |accessdate= 2018-07-24 }}[コマ番号2]。授公爵 従三位徳川家達</ref>
* [[1889年]](明治22年)[[11月25日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|大日本帝国憲法発布記念章]]<ref>{{cite book|和書|title=官報 |volume= 18891130 |number= 1928 | chapter= 辞令 |page= 291 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945177 | date= 1889年11月30日 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号2]。</ref>
* [[1897年]](明治30年)[[6月30日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 18970701 |number= 4198 | chapter= 叙任及辞令 |page= 5 | date= 1897年7月1日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947485 |accessdate= 2018-07-24}} [コマ番号3]。</ref>
* [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= |number= 7272 | chapter= 叙任及辞令 |page= 458 | date= 1907年9月23日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950618 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号4] 叙勲一等授旭日大綬章 貴族院議長従二位勲四等公爵 徳川宗達</ref> <!-- 家達ではなく宗達と混同ではないでしょうか。<br />-->
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|大礼記念章(大正)]]<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= |number= 1310 |chapter=付録「敍任及辭令」山縣有朋等(賞勳局)|page= 1 | date= 1916年12月13日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953423 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号14] 貴族院議長正二位勲一等公爵 徳川家達、勲四等 徳川泰子</ref>
* [[1924年]](大正13年)[[2月11日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>{{cite book|和書|title=官報|volume= 19240214 |number= 3440 | chapter= 叙任及辞令 |page= 185 | date= 1924年2月14日 |url= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955588 |accessdate= 2018-07-24 }} [コマ番号2] 正二位勲一等公爵</ref><ref>[http://www.geocities.jp/nakanolib/giten/kyoku2.htm 中野文庫 - 旧・勲一等旭日桐花大綬章受章者一覧]</ref>
109 ⟶ 121行目:
 
== 参考文献 ==
:{{cite book|和書|author= 保科順子 |title= 花葵 徳川邸おもいで話」( |publisher= 毎日新聞社 |ncid= BA37720408 |isbn= 4620312347|year=1998年)}} - 著者は家達の孫で17代・徳川家正の三女
 
== 注釈 ==
 
<references group="注釈"/>
 
== 出典 ==
117 ⟶ 133行目:
{{Commonscat|Tokugawa Iesato}}
* [[徳川事件]]
* [[小諸城#懐古園|懐古園]] - 園の入口(旧小諸城三之門)の扁額を揮毫したのが家達。
* [[川村清雄]] - 御学友の一人。留学先でもしばしば交流しており、清雄宛の手紙が46通残り([[江戸東京博物館]]蔵)、家達の[[肖像|肖像画]]も描いている([[徳川記念財団]]蔵)。また、清雄を[[パトロン]]として支え続け、[[聖徳記念絵画館]]の[[壁画]]制作の際には、真っ先に清雄を指名している。
{{-}}
123 ⟶ 139行目:
{{S-reg|jp}}
{{Succession box
| title = [[公爵]]
| years = [[徳川家|徳川家(宗家)]]初代<br >1884年 - 1940年
| before = 創設
| after = [[徳川家正]]
}}
{{End box}}