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明応元年(1492年)、誕生。
 
はじめ、[[三河国]][[刈谷城]]城主・水野忠政に嫁いで[[水野忠重]]や[[於大の方]]ら3男1女を生む。ところが、隣の[[岡崎城]]城主・松平清康がその美しさに目をつけて、[[松平氏]]が[[水野氏]]を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれている。(しかし、伝えられている松平清康(1535年死亡)との再婚が事実とすれば、これ以後の出生と考えられる忠分や忠重の母ではない事になり矛盾が生じる。平野明夫は自書「三河松平一族」において所生の子供たちの生年から検討した結果、於富の方と松平清康との再婚は有り得ないと考証、結論している)。清康の死後、[[星野秋国]]、[[菅沼定望]]、[[川口盛祐]]といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれている。(しかし、伝えられている松平清康(1535年死亡)との再婚が事実とすれば、これ以後の出生と考えられる忠分「忠重」の母ではありえない。平野明夫は自書「三河松平一族」において所生の子供たちの生年から検討した結果、於富の方と松平清康との再婚は有り得ないと考証、結論している。
 
その後、[[駿河国]]の[[大名]]・[[今川義元]]を頼って[[駿府]]に入り、[[出家]]して'''源応尼'''(げんおうに)と名乗る。松平竹千代(後の[[徳川家康]]、清康の先妻の子である[[松平広忠]]と娘である於大の方との間に生まれた子)が[[今川氏]]の[[人質]]として駿府に送られると、義元に乞うて竹千代が[[元服]]するまでの8年間、その育成にあたった。