「御真影」の版間の差分

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[[大正時代]]になると[[第一次世界大戦]]の影響で欧州各国の皇室・王室が続々と廃止されていく中、日本政府でも[[大正デモクラシー]]などの影響でイギリス型の「開かれた皇室」を目指す動きが強まり、マスコミに対して皇室の撮影を許可する事例が増えた<ref name=migita/>。大正天皇の病臥中の撮影は認められなかったが、特に皇太子裕仁親王([[昭和天皇]])についての撮影許可が増えた。1921年(大正10年)3月からの皇太子欧州歴訪においては特に多くの写真が撮られ、背広などの「平民的」な皇太子の姿が連日メディアを飾り、皇室人気が高まった<ref name=migita/>。これを機に政府は皇太子帰国直後の同年8月27日に各都道府県への内務省通達を出し、マスコミはあらかじめ許可を受ければ皇室のスナップ写真を自由に撮って良いこととなり、近接した写真撮影も可能となった<ref name=migita/>。これまで秘密主義的だった宮内省も、弟宮と写る背広姿の皇太子や、水着姿の皇太子などプライベートな写真を積極的にマスコミに貸与するようになった<ref name=migita/>。昭和に入った後もしばらくはこうした「平民的」な皇室写真がマスメディアに登場した<ref name=migita/>。当時輸入を担当していた小西六本店([[コニカ]]を経て現[[コニカミノルタ]])が[[1928年]](昭和3年)3月に出版したPR誌によると、[[昭和天皇]]夫妻の御真影は[[ヘリアー]]で撮影されている<ref>『クラシックカメラ専科No.8、スプリングカメラ』p.125。</ref>。
 
しかし[[日中戦争]]・[[第二次世界大戦]]が勃発すると、皇室写真の撮影や新聞雑誌への掲載について政府から様々な干渉を受けることが多くなった。そのため「平民的」な皇室の写真は大幅に減少し、[[大元帥]]を意識した軍服姿や軍務を執る姿の写真が天皇写真の多数大半を占めるようになった。ただ戦時中にあっても「平民的」な皇室写真が完全に消えたわけではなかった<ref name=migita/>。
 
== 第二次世界大戦後==