「ヘレン・ジェイコブス」の版間の差分

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== 来歴 ==
ジェイコブスは[[1932年全米テニス選手権 (テニス)|1932年]]から[[1935年全米テニス選手権 (テニス)|1935年]]まで、[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]に大会4連覇を達成した。初めての全米決勝進出は[[1928年全米テニス選手権 (テニス)|1928年]]であったが、この時はヘレン・ウィルス(ムーディの結婚前の名前)に 2-6, 1-6 で敗れている。それから4年後、ジェイコブスは[[1932年全米テニス選手権 (テニス)|1932年]]の決勝戦でカロリン・バブコックを 6-2, 6-2 で破り、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]初優勝を達成した。翌[[1933年全米テニス選手権 (テニス)|1933年]]の大会は、全米選手権決勝では2度目となるジェイコブスとムーディの「ヘレン対決」となった。ジェイコブスが第1セットを 8-6 で先取し、ムーディが第2セットを 6-3 で奪い返した後、最終第3セットをジェイコブスが 3-0 とリードしたところで、ムーディが背筋痛を訴えて試合を途中棄権するアクシデントが起きた。これでジェイコブスは全米選手権2連覇と同時に、ムーディとの対戦で唯一の勝利を挙げた。[[1934年全米テニス選手権 (テニス)|1934年]]と[[1935年全米テニス選手権 (テニス)|1935年]]の決勝では、ジェイコブスは[[サラ・ポールフリー]]に2年連続で勝っている。ところが、[[1936年全米テニス選手権 (テニス)|1936年]]の決勝でジェイコブスは華やかなキャラクターを持つ[[アリス・マーブル]]に 6-4, 3-6, 2-6 の逆転で敗れ、大会5連覇を逃した。その後、ジェイコブスは[[1939年全米テニス選手権 (テニス)|1939年]]と[[1940年全米テニス選手権 (テニス)|1940年]]の全米決勝でもマーブルに敗れている。これでジェイコブスの全米決勝成績は「4勝4敗」で終わった。4度の準優勝は、最初の時はムーディに、後の3回はマーブルに敗れたことになる。
 
ヘレン・ジェイコブスは[[1936年]]の[[1936年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]優勝者となったが、ここでも不運が続き、通算で5度の準優勝がある。[[1934年ウィンブルドン選手権|1934年]]の決勝戦だけは、相手は[[イギリス]]の[[ドロシー・ラウンド]]であったが、他の4度はすべてムーディに敗れた。唯一の優勝となった1936年の決勝で、ジェイコブスは[[ドイツ]]の[[ヒルデ・スパーリング]]に 6-2, 4-6, 7-5 で競り勝っている。スパーリングは[[1935年全仏テニス選手権 (テニス)|1935年]]から[[1937年全仏テニス選手権 (テニス)|1937年]]まで[[全仏オープン|全仏選手権]]に大会3連覇を達成した選手であるが、ウィンブルドンでは[[1931年ウィンブルドン選手権|1931年]]と[[1936年ウィンブルドン選手権|1936年]]の2度準優勝に終わった。
 
ムーディとジェイコブスによる「2人のヘレン」の歴史は、[[1928年全米テニス選手権 (テニス)|1928年全米選手権]]の女子シングルス決勝戦から始まった。2人は通算11度(うち決勝戦で6度)対戦したが、ジェイコブスが勝ったのは[[1933年全米テニス選手権 (テニス)|1933年]]の全米決勝(ムーディの途中棄権による勝利)の1度だけである。[[全仏オープン|全仏選手権]]での決勝対決は[[1930年全仏テニス選手権 (テニス)|1930年]]の1度だが、[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の決勝では[[1929年ウィンブルドン選手権|1929年]]、[[1932年ウィンブルドン選手権|1932年]]、[[1935年ウィンブルドン選手権|1935年]]、[[1938年ウィンブルドン選手権|1938年]]の4度敗れた。とりわけ[[1935年ウィンブルドン選手権|1935年]]と[[1938年ウィンブルドン選手権|1938年]]の決勝戦では、ジェイコブスがムーディのウィンブルドン「7勝」([[ドロテア・ダグラス・チェンバース]]による当時の大会最多優勝記録に並ぶ)と「8勝」(チェンバースの記録を更新)の記念碑を見守る立場に回った。ムーディは8度目のウィンブルドン優勝を最後に現役を退き、最後までジェイコブスの壁として立ちはだかったのである。その力関係から、当時のテニスファンたちは「悔しがって足を踏み鳴らすジェイコブスが、ムーディの後をついて行く」という描写を好んだ。選手時代に、ジェイコブスはテニスに関連した著書を3冊出版している。
 
テニス経歴を退いた後、ヘレン・ジェイコブスは[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]で[[アメリカ海軍]]に入隊して司令官の仕事に携わった。当時米国海軍で働いていた女性は、ジェイコブスを含めて5人だけだったという。ジェイコブスは[[1944年]]に“''Storm Against the Wind''”(風に逆らう嵐)という題名の小説も書いた。[[1962年]]に[[国際テニス殿堂]]入り。35年後の[[1997年]][[6月2日]]、ヘレン・フル・ジェイコブスは[[ニューヨーク]]のイーストハンプトンにて、[[心臓発作]]のため88歳で長逝した。
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!年!!大会!!対戦相手!!試合結果
|-style="background: #CCF;"
| [[1932年]] || [[1932年全米テニス選手権 (テニス)|全米選手権]] || {{flagicon|USA}} [[カロリン・バブコック]] || 6-2, 6-2
|-style="background: #CCF;"
| [[1933年]] || [[1933年全米テニス選手権 (テニス)|全米選手権]] || {{flagicon|USA}} [[ヘレン・ウィルス・ムーディ]] || 8-6, 3-6, 3-0(棄権)
|-style="background: #CCF;"
| [[1934年]] || [[1934年全米テニス選手権 (テニス)|全米選手権]] || {{flagicon|USA}} [[サラ・ポールフリー]] || 6-1, 6-4
|-style="background: #CCF;"
| [[1935年]] || [[1935年全米テニス選手権 (テニス)|全米選手権]] || {{flagicon|USA}} [[サラ・ポールフリー|サラ・ファビアン]] || 6-2, 6-4
|-style="background: #CF9;"
| [[1936年]] || [[1936年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]] || {{flagicon|DEU1935}} [[ヒルデ・スパーリング]] || 6-2, 4-6, 7-5
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{{DEFAULTSORT:しえいこふす へれん}}
[[Category:アメリカ合衆国の女子テニス選手]]
[[Category:国際テニス殿堂入りの人物]]
[[Category:アリゾナ州の人物]]