「クラレンス・グリフィン」の版間の差分

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== 来歴 ==
グリフィンは[[1913年]]、25歳という比較的遅い年齢でテニス界に登場した。彼は全米選手権の男子ダブルスで[[1915年全米テニス選手権 (テニス)|1915年]]・[[1916年全米テニス選手権 (テニス)|1916年]]・[[1920年全米テニス選手権 (テニス)|1920年]]の3度優勝したが、パートナーはすべて[[ビル・ジョンストン]]であった。シングルスでは[[1916年全米テニス選手権 (テニス)|1916年]]のベスト4が自己最高成績で、この準決勝では[[リチャード・ノリス・ウィリアムズ|リチャード・ウィリアムズ]]に 3-6, 3-6, 3-6 のストレートで完敗した。当時は[[第一次世界大戦]]の戦時中であり、[[ウィンブルドン選手権]]や[[デビスカップ]]などのイベントは開催が中断されていたが、全米選手権だけは戦時中も途切れることなく続行された。
 
第一次世界大戦が[[1918年]]11月に終結した後、ウィンブルドン選手権やデビスカップは[[1919年]]から開催が再開された。終戦の翌年、グリフィンは[[1919年ウィンブルドン選手権|1919年]]にキャリアで唯一のウィンブルドン選手権出場を果たしたが、シングルス2回戦敗退に終わった。[[1920年全米テニス選手権 (テニス)|1920年]]、グリフィンと[[ビル・ジョンストン]]は4年ぶり3度目の全米選手権男子ダブルス優勝を果たす。グリフィンはその後も全米選手権に断続的な参加を続け、[[1931年全米テニス選手権 (テニス)|1931年]]に43歳で最後の出場をした。なお、彼は[[デビスカップ]]のアメリカ代表選手として参加する機会はなかった。
 
クラレンス・グリフィンは[[1915年]]1月に[[フィリピン]]・[[マニラ]]で行われた「東洋選手権大会」で[[日本]]の[[熊谷一弥]]と対戦したことがあり、日本における「硬式テニス」の黎明期に関わった選手の1人でもある。当時「全米テニスランキング」6位につけていたグリフィンは、東洋選手権大会のシングルス決勝で熊谷に敗れて準優勝になった。ダブルス決勝では、グリフィンとウォード・ドーソンの組が熊谷と[[三神八四郎]]のペアを破り、熊谷の単複優勝を阻止した。(下記参考文献に挙げた岡田邦子著『日本テニスの源流 福田雅之助物語』では、大会名が「カーニバル祭トーナメント」と記されている。)
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{{全米テニス選手権男子ダブルス優勝者}}
{{DEFAULTSORT:くりふいん くられんす}}
[[Category:アメリカ合衆国の男子テニス選手]]
[[Category:国際テニス殿堂入りの人物]]
[[Category:サンフランシスコ出身の人物]]