「後漢書」の版間の差分

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[[File:Han Chronicle Empress Deng.JPG|thumb|『後漢書』]]
{{二十四史}}
『'''後漢書'''』(ごかんじょ)は、[[中国]][[後漢]]朝について書かれた[[歴史書]]。[[二十四史]]の一つ。本紀10巻、列伝八十80巻、志三十30巻の全百二十120巻からなる[[紀伝体]]。成立は[[5世紀]][[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の南朝[[宋 (南朝)|宋]]の時代で編者は[[范曄]](はんよう、[[398年]] - [[445年]])。
 
== 成立までの経緯 ==
范曄は[[字]]蔚宗と言い、幼い頃から学問に長じ、経書に通じて文章・音楽を良くしたという。宋の創始者・[[劉裕]]に仕えて尚書吏部郎となったが、[[432年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]9年)に事件を起こし、左遷されて宣城[[太守]]になり、在任中に『後漢書』を著したとされている。范曄が執筆したのは本紀と列伝のみである。志については、范曄が後に[[文帝 (南朝宋)|文帝]]の弟、[[劉義康]]擁立の事件に関ったことで処刑されたので書かれていない。後に南朝[[梁 (南朝)|梁]]の[[劉昭]]は、范曄の『後漢書』に、[[西晋]]の[[司馬彪]]が著した『[[続漢書]]』の志の部分を合わせ注を付けた。このため現在伝わるのは、後述の李賢注と劉昭注の『続漢書』の志を合刻した[[北宋]]時代の版本に基づくものである。
 
范曄著『後漢書』の成立は[[432年]]以降と後漢滅亡から200年以上が経ってからのことであり、年代的には『後漢書』より後の時代の範囲を記述している『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の方が、范曄の『後漢書』よりも約150年も前に既に成立していた。後漢滅亡から200年余りの間に後漢についての歴史書を数多くの史家が著している。後漢がまだ存続していた時から書かれた同時代史書である『[[東観漢記]]』、東晋の[[袁宏]]の『[[後漢紀]]』など。その他にも数多くの史書が存在していて、これを八家後漢書(あるいは七家)と呼んでいる。
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== 評価 ==
『後漢書』は歴史評論家にある一定の高い評価を得ている。八家後漢書がいずれも散逸して、范曄の『後漢書』のみが残ったとう事実が范曄『後漢書』に対する評価を表しているともいえる。
 
== 内容 ==
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| [[:s:zh:後漢書/卷54|巻54]] || <!--五十四 -->楊震列伝<!--第四十四--> || [[楊震]]・[[楊秉]]・[[楊賜]]・[[楊彪]]・[[楊修|楊脩]]
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| [[:s:zh:後漢書/卷55|巻55]] || <!--五十五 -->章帝八王伝<!--第四十五--> || [[劉伉]]・[[劉全]]・[[劉慶 (清河王)|劉慶]]・[[劉壽]]・[[劉開]]・[[劉淑 (後漢)|劉淑]]・[[劉万歳]]・[[劉勝 (後漢)|劉勝]]
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| [[:s:zh:後漢書/卷56|巻56]] || <!--五十六 -->張王種陳列伝<!--第四十六--> || [[張晧]]・[[張綱]]・[[王龔]]・[[王暢]]・[[チュウ暠|种暠]]・[[种岱]]・[[种拂]]・[[种劭]]・[[陳球]]