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|大陸・島=[[ユーラシア大陸]]
|海域=[[紅海]]・[[アラビア海]]
|国={{ARE}}<br />{{YEM}}<br />{{OMN}}<br />{{QAT}}<br />{{SAU}}
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'''アラビア半島'''(アラビアはんとう、{{lang-ar|شبه الجزيرة العربية}}、単に'''アラビア'''とも)は、[[アジア]]と[[アフリカ]]を繋ぐ場所に位置する[[西アジア]]南西の巨大な[[半島]]である。アラビア語では「アラブの島」を意味するジャジーラ・アルアラブと呼ばれている<ref>{{Cite web|url=http://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E5%8D%8A%E5%B3%B6|title=アラビア半島|publisher=コトバンク|accessdate=2014-05-04}}</ref>。半島としては世界最大である<ref>{{Cite web|url=http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/7267/m0u/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2/|title=アラビア|publisher=goo辞書|accessdate=2014-05-04}}</ref>。
 
== 地理 ==
[[紅海]]、[[アカバ湾]]、[[アラビア海]]、[[アデン湾]]、[[ペルシア湾]]、[[オマーン湾]]等に囲まれており、北の付け根は[[イラク]]と[[ヨルダン]]にあたる。
 
アラビア半島はその面積の大部分が砂漠に覆われており、半島の中央から北部にかけては[[ダフナ砂漠]]および[[ナフド砂漠]]、南東には[[ルブアルハリ砂漠]]が広がっている。一方で半島南部から南東部にかけての沿岸地域は[[季節風]]の影響により農耕に適した[[温暖湿潤気候]]となっている。[[紅海]]沿いには南北に山脈が連なっており、最高峰は半島南西部の[[ナビー・シュアイブ山]]で標高は3,666メートル<ref name=tokunaga>[[#徳永2012|徳永 (2012)]] 31-33頁。</ref>。
 
政治的には、[[サウジアラビア]]、[[アラブ首長国連邦]]、[[カタール]]、[[オマーン|オマーン王国]]、[[イエメン|イエメン共和国]]に分かれており、カタールとサウジアラビアの沖に[[バーレーン]]がある。サウジアラビアはアラビア半島の80%の面積を占めているが、その広大な国土の大部分は不毛な砂漠地帯であり、耕作地は全体のわずか1.4%にすぎない<ref>{{Cite web|url=http://www.maff.go.jp/j/kokusai/kokusei/kaigai_nogyo/k_gaikyo/sau.html|title=サウジアラビアの農林水産業概況|publisher=農林水産省|accessdate=2014-05-04}}</ref>。
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このように、アラビア半島は四方を海と砂漠に囲まれた閉鎖的な地理条件下にあったため、アラビア半島に住むアラブ人たちは自らの居住地を「島」の意味を持つ「جزيرة(ジャズィーラ)」に定冠詞を付けた「[[アルジャジーラ|الجزيرة]](アル・ジャズィーラ)」と呼んでおり、アル・ジャズィーラという語は「アラブ地域」の代名詞として慣習的に用いられている。
 
== アラビアの語源 ==
「アラビア」という語は「アラブの土地」を意味する古代ギリシャ語に由来しており、「アラブ」という語は「アラビア語を母語とする者」という意味がある<ref name=tokunaga/>。既に[[ローマ帝国]]のときからアラビア属州という名前が存在することから、それより以前からこの地域はアラビアと呼ばれていたことになる。記録では[[アッカド人]]が彼らのことをArabiと読んでいたことが知られており、最も古い物では紀元前853年の[[アッシリア]]の碑文に書かれた被征服民リストの中に「アラブの王」という用例が見られる<ref name=tokunaga/>。[[旧約聖書]]の[[創世記]]2章11節に出てくる「ハビラ」をアラビア半島とする説がある。
 
== 歴史 ==
*100万年前頃 アフリカ大陸のタンザニアを起源とする[[ホモ・エレクトス]]がアラビア半島に定住し始める。シナイ半島を経由してアラビア半島の北側から侵入したグループと、紅海のバーブ・アルマンデブ海峡を渡りアラビア半島の南側から侵入したグループの2つのグループがいたとされる<ref name=tokunaga36-37>[[#徳永2012|徳永 (2012)]] 36-37頁。</ref>。
*1万年前頃 旧石器時代に入る。多くの岩絵の遺跡が発見されている<ref name=tokunaga38-40>[[#徳永2012|徳永 (2012)]] 38-40頁。</ref>。
*紀元前4000年紀末 [[ ペルシア湾]]岸で[[メソポタミア文明]]や[[インダス文明]]との交易で栄えたとされる[[ディルムン]]の名が記録に現れる。<ref name="Crawford">{{cite book |title=Dilmun and its Gulf neighbours |last=Crawford |first=Harriet E. W. |authorlink= |coauthors= |year=1998 |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge |isbn=0521583489 |pages=5 }}</ref><ref name="hoj">{{cite journal|author=Jesper Eidema, Flemming Højlundb |date=1993 |title=Trade or diplomacy? Assyria and Dilmun in the eighteenth century BC|url=http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00438243.1993.9980218#.UyNb6vmSxfA|publisher= |volume=24 |issue=3 |pages=441–448 |doi=10.1080/00438243.1993.9980218}}</ref><ref>{{cite web|url={{Google books |plainurl=yes |id=2BevKadehakC |page=8 }} |title=Dilmun and Its Gulf Neighbours|work=Harriet E. W. Crawford|year=1998|page=9|accessdate=2016-5-27}}</ref>
*紀元前3000年頃  アラビア半島で灌漑農業が始まる<ref name=tokunaga42>[[#徳永2012|徳永 (2012)]] 42頁。</ref>。
*紀元前2000年頃  ラクダを家畜化することに成功し、アラビア半島の人々が陸上交易の担い手として活躍する<ref name=tokunaga54-55>[[#徳永2012|徳永 (2012)]] 54-55頁。</ref>。 
*紀元前1000年頃  鉄器時代に入る。アラビア半島南部では諸王国が立ち、乳木などの香料を生産してエジプトやエーゲ海地方に輸出し繁栄する<ref name=tokunaga49>[[#徳永2012|徳永 (2012)]] 49頁。</ref>。
*紀元前8世紀頃  史料に初めてアラビア半島の国家の名が現れる。その国は[[シバ王国|サバア]]と呼ばれ、ダムを利用した灌漑農業や香料の生産、エジプトからメソポタミア、インドに渡る海上貿易などによって経済的に豊かな国であったとされる<ref name=tokunaga55>[[#徳永2012|徳永 (2012)]] 55頁。</ref>。
*紀元前323年  [[アレクサンドロス3世]]によるアラビア遠征の計画が立てられるも、アレクサンドロス3世の急死により実現しなかった<ref name=tokunaga49/>。
*紀元前2世紀頃 [[ イエメン]]に[[ヒムヤル王国]]が成立<ref>前田、近藤、蔀「古代オリエントの世界」『西アジア史』1、118頁</ref>。気候変動による乾燥化、エジプトによる海洋交易網の整備に伴う陸上交易の縮小などにより、南アラビアの諸国が衰退する<ref name=tokunaga57>[[#徳永2012|徳永 (2012)]] 57頁。</ref>。
*紀元前26年-25年 [[ ローマ帝国]]によるアラビア遠征<ref name=tokunaga49/>。
*1世紀後半から2世紀頃  ローマ帝国の迫害により追われた[[ユダヤ人]]がアラビア半島に移住しはじめる<ref name=tokunaga199>[[#徳永2012|徳永 (2012)]] 199頁。</ref>。
*[[5世紀]]頃  商業発展し、[[マッカ]]とヤスリブ([[マディーナ]]の旧称)を中心に栄える。
*[[570年]]  マッカに[[イスラム教]]の開祖[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]誕生。
*[[622年]]  初期イスラム教団がマッカを離れ、本拠地を[[ヤスリブ]]に移す。ヤスリブは「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビー(略称:マディーナ)に改名。これを[[ヒジュラ]](聖遷)と称する。この年をイスラムの暦である[[ヒジュラ暦]](1年を354日とする[[太陰暦]])の元年とする。
*[[630年]]  ムハンマドのマッカ入城。ムハンマド率いるイスラム軍がアラビア半島統一。
*[[632年]]  ムハンマド死去。初代[[正統カリフ]]として[[アブー=バクル]]が選出される。首都はマッカ。
*[[661年]]  [[ウマイヤ朝]]成立。帝国の首都はマッカから[[ウマイヤ家]]の本拠地[[ダマスカス]]に遷都。
*[[10世紀]]後半  マッカを含む半島西部の[[ヒジャーズ|ヒジャーズ地方]]は、[[ファーティマ朝]]の保護下となる。
*[[12世紀]]後半  [[アイユーブ朝]]建国。ヒジャーズ地方は[[アイユーブ朝]]の領土となる。
[[ファイル:Pieter van der Aa - The Coast of Arabia the Red Sea, and Persian Sea of Bassora Past the Straits of Hormuz.tif|サムネイル|サウジアラビア紅海とホルムズ海峡過去インドへBassoraのペルシャの海、グジャラート、コモリン岬の海岸は''''世界デジタル図書館からアラビアPennisulaを示す1707年からマップです]]
*[[1250年]]  [[マムルーク朝]]建国。ヒジャーズ地方は[[マムルーク朝]]の領土となる。
*[[1517年]]  [[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]、[[マッカ]][[マディーナ]]の保護権獲得。
*[[1802年]]  ワッハーブ王国がヒジャーズ地方に進出。
*[[1818年]]  エジプト総督[[ムハンマド・アリー]]がワッハーブ王国を滅ぼす。
*[[1824年]]  [[第二次サウード王国]]が建国。
*[[1891年]]  第二次サウード王国が滅亡。[[オマーン]]が[[イギリス帝国|イギリス]]の保護国になる。
*[[1902年]]  [[サウード家]]が[[リヤド]]奪還。[[ナジュド及びハッサ王国|サウード王国]]復興。
*[[1915年]] [[ イギリス帝国|イギリス]]は来るべき[[アラブ反乱]](アラブのトルコからの独立戦争)の支持を確約([[フサイン=マクマホン協定]])。
*[[1916年]] [[ アラブ反乱]]勃発。[[ヒジャーズ王国]]成立。
*[[1918年]]  [[イエメン王国]]独立。
*[[1920年]] [[ オスマン帝国]]は[[セーヴル条約]]により、ヒジャーズ王国の独立を承認。
*[[1924年]]  トルコ共和国で[[カリフ]]制度が廃止されると、[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|ヒジャーズ国王フサイン]]がカリフを自称。しかし支持を得られず孤立。ヒジャーズ王は長男のアリー・イブン・フサインに王位を譲り隠遁する。
*[[1925年]]  サウード家の[[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード|イブン=サウード]]がヒジャーズに侵攻。ヒジャーズ王国滅亡。
*[[1931年]]  イブン=サウードがヒジャーズ=ネジト王国の建国を宣言。
*[[1932年]]  ヒジャーズ=ネジト王国が[[サウジアラビア王国]]に改称される。
*[[1951年]]  [[ガワール油田]]が生産開始。サウジアラビア王国に莫大な富をもたらす。
*[[1971年]] [[ バーレーン]][[カタール]][[アラブ首長国連邦]][[オマーン]]がイギリスから独立。
*[[1991年]]  [[湾岸戦争]]勃発。
*[[1996年]] [[ アルジャジーラ]]開局。
*[[2010年]]  [[ブルジュ・ハリファ|ブルジュ・ハリーファ]]竣工。
 
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=徳永里砂|title=イスラーム成立前の諸宗教|series=イスラーム信仰叢書|volume=8|year=2012|publisher=国書刊行会|isbn=978-4-336-05211-7|ref=徳永2012}}
 
== 関連項目 ==
{{commons&cat|Arabian peninsula|Arabian Peninsula}}
{{ウィキプロジェクトリンク|地形}}
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*[[シバの女王]]
*[[アルジャジーラ]]
*[[ガワール油田]]
*[[ブルガン油田]]
*[[アラビアプレート]]
100行目:
[[Category:中東の地理]]
[[Category:西アジアの地理]]
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