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前史を修正。第一革命の記述を省略し、二月革命直前の状況を詳細化
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== 経緯 ==
=== 前史 ===
1905年、[[血の日曜日事件]]によって始まった[[ロシア第一革命]]は、1907年6月に[[ストルイピン]]首相のクーデタで終息した。労働運動や革命運動は一時的に停滞し、革命家は西ヨーロッパへと逃れた。
{{USSR}}
 
{| class="wikitable"
{| class="wikitable floatleft" style="text-align:right"
!|+ 年 !! 年間平均ストライキ発生数<ref>Ascher 19051981, p.689</ref>
! rowspan="2" | 年次 !! colspan="2" | ストライキ件数 !! colspan="2" | 参加労働者数
|-
| 絶対数 || /全工場数(%) || 絶対数 || /全労働者(%)
|-
| 1905 || 13,995 || 93.2 || 2,863,173 || 163.6
|-
| 1906 || 6,114 || 42.2 || 1,108,406 || 65.6
|-
| 1907 || 3,573 || 23.8 || 740,074 || 41.9
|-
| 1908 || 892 || 5.9 || 176,101 || 9.7
|-
| 1909 || 340 || 2.3 || 64,166 || 3.5
|-
| 1910 || 222 || 1.4 || 46,623 || 2.4
|-
| 1911 || 466 || 2.8 || 105,110 || 5.1
|-
| 1912 || 2,032 || 11.7 || 725,491 || 33.7
! 年 !! 年間平均ストライキ発生数<ref>Ascher 1905,p.6</ref>
|-
| 1913 || 2,404 || 13.4 || 887,096 || 38.3
| 1862–9 || 6
|-
| 1914 || 3,534 || 25.2 || 1,337,458 || 68.2
| 1870–84 || 20
|-
| 1915 || 928 || 7.3 || 539,528 || 28.1
| 1885–94 || 33
|-
| 1916 || 1,410 || 11.3 || 1,086,364 || 51.9
| 1895–1905 || 176
|}
ロシアでは[[1861年]]の[[農奴解放令|農奴解放]]以後も[[農家|農民]]の生活向上は緩やかで、[[封建制|封建]]的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。また、[[19世紀]]末以降の[[産業革命]]により工業[[労働]]者が増加し、[[社会主義]]勢力の影響が浸透していた。これに対し、[[ロマノフ朝]]の[[絶対王政|絶対]][[専制政治|専制]]([[ツァーリズム]])を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じることができないでいた。[[1881年]]には皇帝[[アレクサンドル2世]]が暗殺されるなど[[テロリズム|テロ]]も頻繁に発生していた。社会不安と急速な工業化の進展によってストライキの発生数は急速に増加していた。
 
1912年4月、バイカル湖北方のレナ金鉱でストライキ中の労働者に対して軍隊が発砲し、多数の死者が出た([[レナ虐殺事件|レナ金鉱事件]])。全国に抗議ストが広がり、労働運動は再活性化へと向かった。ストライキは1914年には第一革命期に匹敵するレベルに達した。[[第一次世界大戦]]が勃発すると愛国主義が高まり、弾圧も強まって労働運動はいったん脇に押しやられたが、戦争が生活条件の悪化をもたらすと労働運動は復活した。1915年6月にコストロマー、8月にイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクで労働者が警官と軍隊に射殺される事件が起き、抗議のストを呼び起こした<ref>和田 1968,p.328</ref>。
[[日露戦争]]での苦戦が続く[[1905年]]1月には首都[[サンクトペテルブルク]]で[[ツァーリ]]に対する労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した([[血の日曜日事件_(1905年)|血の日曜日事件]]){{Sfn|藤本他|1999|p=164}}。この事件を機に後のソヴィエトの原型となる「シドロフスキー委員会」が形成された{{Sfn|藤本他|1999|p=164}}。また、[[黒海艦隊]]では「血の日曜日事件」の影響を受け[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公_(戦艦)|戦艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー公]]の水兵らが反乱を起こしたが{{Sfn|藤本他|1999|p=165}}、他艦により鎮圧された。同艦に呼応した[[ゲオルギー・ポベドノーセツ_(戦艦)|戦艦ゲオルギー・ポベドノーセツ]]は、指揮官により座礁させられた。また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした[[オチャーコフ_(防護巡洋艦)|防護巡洋艦オチャーコフ]]でも、戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。この時期、ロシア中央から離れた[[セヴァストポリ|セヴァストーポリ]]や[[オデッサ]]など[[黒海]]沿岸諸都市や[[キエフ]]などで革命運動が盛り上がりを見せた。なおこの年の9月にはロシアは日露戦争に敗北している。
 
自由主義者は1915年に国会で[[立憲民主党_(ロシア)|カデット]]を中心として「進歩ブロック」をつくり、戦勝をもたらしうる「信任内閣」の実現をめざして政府批判を強めた。自由主義陣営内の急進派は労働者代表も含む工業動員のための組織として戦時工業委員会を主要都市に設立した<ref>和田 1968,pp.329-330</ref>。
こうした革命運動の広がりに対し皇帝[[ニコライ2世]]は[[十月勅令]]で[[ドゥーマ]](国会)開設と[[ロシア帝国国家基本法|憲法制定]]を発表し、革命運動の一応の鎮静化に成功した{{Sfn|藤本他|1999|p=166}}。自由主義者たちは[[立憲民主党 (ロシア)|立憲民主党]](カデット)や[[10月17日同盟]](オクチャブリスト)を結成した一方、社会主義者たちは労働者代表として結成されたペテルブルク労働ソヴィエトに結集した{{Sfn|藤本他|1999|p=166}}。
 
1916年6月、政府は従来兵役を免除してきた中央アジア諸民族やザカフカーズの回教徒住民を後方勤務に動員することを発表した。中央アジア、カザフスタンの住民は7月に反乱を起こした。10月にはペトログラードの労働者がストライキを行い、軍隊の一部も加わった<ref>長尾 1972,p.49</ref>。
[[1906年]]にドゥーマが開設された後、首相に就任した[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]は意に沿わないドゥーマを強制的に解散させる一方で、農業改革を中心として{{仮リンク|ストルイピン改革|en|Stolypin reform|label=ロシアの近代化を図った|FIXME=1<!-- :ja misredirect -->}}{{Sfn|藤本他|1999|p=169}}。しかし、改革は強い抵抗にあい、さらに{{仮リンク|ストルイピン暗殺事件|ru|Убийство Столыпина|label=ストルイピンの暗殺}}([[1911年]])によって、帝政ロシアの改革の試みは挫折した{{Sfn|藤本他|1999|p=170}}。スト発生数はさらに増加を続け、1912年の2032件から、1914年の前半だけで3000件を超えるまでになった<ref>サーヴィス 2005,pp.39-40</ref>。
 
11月、進歩ブロックの[[パーヴェル・ミリュコーフ|ミリュコーフ]]は国会において政府の行為をひとつひとつ挙げて「愚行なのか、それとも裏切りなのか」と非難する演説を行った。支配層の同様も激しくなり、12月には皇帝夫妻に取り入って権勢をふるっていた僧侶[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]が皇族や貴族のグループによって暗殺された<ref>和田 1968,pp.334-335</ref>。
一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指した[[ロシア社会民主労働党]]は方針の違いから、[[1912年]]に[[ウラジーミル・レーニン]]が指導する[[ボリシェヴィキ]]と[[ゲオルギー・プレハーノフ]]らの[[メンシェヴィキ]]に分裂していたが、[[ナロードニキ]]運動を継承して農民の支持を集める[[社会革命党]](エスエル)と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦において[[ドイツ帝国|ドイツ]]軍による深刻な打撃([[1915年]] - [[1916年]])が伝えられるとその党勢を拡大していった。
 
1917年1月、中央戦時工業委員会労働者グループは「国の完全な民主化」「人民に依拠する臨時政府」をスローガンとして掲げて国会デモを呼びかけた。政府は労働者グループのメンバーや協力者を逮捕し、中央戦時工業委員会は抗議声明を発表した<ref>長尾 1972,p.51</ref>。
第一次世界大戦はロシア不利のまま長期間に及ぶようになり、ロシア経済の混乱と低迷も一層ひどくなっていった。食糧不足が蔓延し、ストが多発するようになっていった。また、ドゥーマも皇帝の干渉に対して不満を表明するようになり、1915年には[[パーヴェル・ミリュコーフ]]を中心に、カデットやオクチャブリスト、進歩党と愛国主義者らによって進歩ブロックが結成され、政府との対立姿勢を強めていった{{Sfn|藤本他|1999|p=189}}。1916年12月には、宮廷に取り入って大きな権勢をふるっていた怪僧[[グリゴリー・ラスプーチン]]が[[フェリックス・ユスポフ|ユスポフ公]]と[[ドミトリー・パヴロヴィチ|ドミトリー大公]]によって暗殺された。
 
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* 黒川祐次 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』中央公論新社〈中公新書; 1655〉、東京、2002年(日本語)ISBN 4-121-01655-6。
* {{Cite book |和書 |author=[[田中陽児]]・[[倉持俊一]]・[[和田春樹]]編|year=1997|title=世界歴史体系 ロシア史3|publisher=山川出版社|isbn=|ref={{SfnRef|田中他|1997}}}}
* {{Cite book |和書 |author=長尾久|year=1972 |title=ロシヤ十月革命|publisher=亜紀書房|ref={{SfnRef|長尾|1972}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[長尾久]]|year=1973 |title=ロシヤ十月革命の研究|publisher=社会思想社|isbn=|ref={{SfnRef|長尾|1973}}}}
* {{Cite book |和書 |author=辻義昌|year=1981 |title=ロシア革命と労使関係の展開|publisher=御茶の水書房|ref={{SfnRef|辻|1981}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[藤本和貴夫]]・[[松原広志]]編|year=1999 |title=ロシア近現代史 ピョートル大帝から現代まで|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=9784623027477|ref={{SfnRef|藤本他|1999}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[アレクサンドル・ケレンスキー]]|year=1977 |title=ケレンスキー回顧録|publisher=恒文社|isbn=4770401353|ref={{SfnRef|ケレンスキー|1977}}}}