「アントン・ルビンシテイン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎メディア: Lintエラーを修正
仮リンク
1行目:
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = アントン・ルビンシテイン<br />{{lang|ru|Анто́нАнтон Рубинште́йнРубинштейн}}
| Img = Ilja Jefimowitsch Repin 007.jpg|thumb|right|180px
| Img_capt =
22行目:
| Influences =
| URL =
| Current_members = <!-- グループのみ -->
| Past_members = <!-- グループのみ -->
| Notable_instruments =
}}
32 ⟶ 30行目:
 
== 略歴 ==
ロシア領[[ポドリスク]]地方ヴィフヴァチネツ({{lang|ru|Вихватинец}}, 現在の[[モルドバ|モルドバ共和国]]/[[沿ドニエストル共和国]]の{{仮リンク|ルブニツオフティンツィ|ruro|РыбницаOfatinți, Stînga Nistrului}}近郊に[[アシュケナジム|ユダヤ系ロシア人]]の家庭に生まれる。父は鉛筆製造業者で、母は[[ポーランド]]出身だった。2歳の時に父方の祖父の要望により一家で[[ロシア正教]]に改宗。
 
5歳で母からピアノを教わったのちAlexander{{仮リンク|アレクサンドル・ヴィルアン|ru|Виллуан, VilloingАлександр Иванович}}に師事し、9歳で演奏会を開く。その後Villoingヴィルアンと共に[[パリ]]へ渡り、[[パリ音楽院]]への入学を目指すが失敗<ref>このことを根に持っており、[[フェルッチョ・ブゾーニ]]がパリ音楽院への進学を相談したところ、「あんなのいらない」と吐き捨てた話はとくに有名。</ref>。だが[[サル・エラール]]で演奏会を開いたのが縁で[[フレデリック・ショパン]]、[[フランツ・リスト]]と面識を持つ。その後、ヨーロッパからロシアにかけて演奏会を開いて成功を収める。[[1844年]]には[[ベルリン]]で[[フェリックス・メンデルスゾーン]]と[[ジャコモ・マイアベーア]]の知遇を得、マイアベーアの勧めて弟ニコライと共に[[ジークフリート・デーン]]に作曲と音楽理論を学び、後には[[アドルフ・ベルンハルト・マルクス]]にも学ぶ。
 
ロシアを含む[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ]]で精力的に演奏会を開き、ロシアのピアニストとして初めて世界的名声を博してロシア・ピアノ流派の祖となった。また、[[1862年]]にロシア最初の専門的な音楽教育機関である[[サンクトペテルブルク音楽院]]を創設し、[[1859年]]には[[ロシア音楽協会]]を創設した。それまで[[オペラ]]中心であった<ref>ただし、彼は18曲のオペラと1曲のバレエを遺した。</ref>ロシアの音楽活動に[[交響曲]]や[[管弦楽]]、[[室内楽曲]]などを持ち込ませるなど、[[ヨーロッパ]]の音楽的伝統を[[ロシア]]に根付かせるために、彼はオペラから歌曲までのすべての[[19世紀]]のジャンルで作曲した。これは[[ロシア人]]では初めてのことだった。
93 ⟶ 91行目:
 
=== 協奏曲 ===
* [[ピアノ協奏曲第1番 (ルビンシテイン)|ピアノ協奏曲第1番ホ短調]] Op.25(1850):師匠のAlexander{{仮リンク|アレクサンドル・ヴィルアン|ru|Виллуан, VilloingАлександр Иванович}}に献呈。
* [[ピアノ協奏曲第2番 (ルビンシテイン)|ピアノ協奏曲第2番ヘ長調 Op.35]] (1851)
* [[ピアノ協奏曲第3番 (ルビンシテイン)|ピアノ協奏曲第3番ト長調 Op.45]](1853 - 54)
134 ⟶ 132行目:
* 音楽の夜会Op.109
* ドレスデンの想い出Op.118
* ポルカ  ハ長調Op.121
* 3つの舟歌
* ワルツ・カプリース 変ホ長調(1870)
* ロシアのセレナード
* ワルツ  変イ長調
 
=== 歌曲 ===