「御霊神社 (大阪市)」の版間の差分
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== 由緒 ==
* [[嘉祥]]3年([[850年]])から[[大阪湾]]岸の圓江(つぶらえ=現在の[[靱]])で行われた八十嶋祭([[大嘗祭]]の翌年に行われる)の祭場とされた圓神祠(つぶらしんし)に、瀬織津比売神、津布良彦神、津布良媛神が祀られる。
* 社はやがて圓神社、圓江神社、津村神社と呼ばれるようになり、[[摂津国]]津村郷の[[産土神社]]となった。この当時の当社は[[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]靱本町にある[[楠永神社]]の近辺にあった。
* [[文禄]]3年([[1594年]])、[[因幡国
*[[寛文]]年中、御霊神社と改称。▼
* [[江戸時代]]になると、[[鎌倉景正|鎌倉権五郎]]の権五郎から五郎ノ宮や、圓御霊とも呼ばれた。また境内の南側には[[十一面観音]]を[[本尊]]とする[[神宮寺]]の宝城寺が作られた。
*[[明治]]6年([[1873年]])、[[近代社格制度|郷社]]に列する。▼
▲* [[寛文]]年中、御霊神社と改称。
* 明治17年([[1884年]])、人形浄瑠璃の劇場「[[文楽座]]」が境内に開設。「'''御霊文楽座'''」として、近世文楽における黄金期のにぎわいを見せる。▼
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* [[明治時代]]に入ると[[神仏分離令]]によって、御霊神社と宝城寺の境内を分けることとなったが、後に宝城寺は廃寺となった。その為に現在、御霊神社の南側にある会社のビルの前に[[鳥居]]だけが残ることとなった。
* [[昭和]]5年([[1930年]])に社殿再建。▼
* 昭和20年([[1945年]])3月14日、[[大阪大空襲]](第1次)により、再び全て焼失した。▼
* 昭和32年([[1957年]])、現在の社殿を再興。▼
* [[1926年]]([[大正]]15年)11月に御霊文楽座から出火、本殿とともに焼失した。
* 昭和34年([[1959年]])、鳥居玉垣を再建。その後、年を追って往時に勝る威容を整備しつつある。▼
== 御旅所 ==
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