「御霊神社 (大阪市)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
「社はやがて圓神社、圓江神社、津村神社と呼ばれるようになり、摂津国津村郷の産土神社となった。この当時の当社は大阪市西区靱本町にある楠永神社の近辺にあった」等の文章の追加と校正。
34行目:
 
== 由緒 ==
* [[嘉祥]]3年([[850年]])から[[大阪湾]]岸の圓江(つぶらえ=現在の[[靱]])で行われた八十嶋祭([[大嘗祭]]の翌年に行われる)の祭場とされた圓神祠(つぶらしんし)に、瀬織津比売神、津布良彦神、津布良媛神が祀られる。
* 古来、瀬織津比売神、津布良彦神、津布良媛神を祭り圓神祠(つぶらしんし)と称していた。
* 社はやがて圓神社、圓江神社、津村神社と呼ばれるようになり、[[摂津国]]津村郷の[[産土神社]]となった。この当時の当社は[[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]靱本町にある[[楠永神社]]の近辺にあった。
* [[文禄]]3年([[1594年]])、[[因幡国|因幡]][[鹿野藩]]主の[[亀井茲矩]]から[[船場 (大阪市)|船場]]の自邸敷地の一部を寄進され、境内の小祠乾八幡宮と源正霊神を本殿に合祀した上で、 圓江(つぶらえ=現在の[[靱]])から船場の現在地へ遷座する(亀井茲矩はこの後、因幡高草の[[白兎神社]]を再興した
*[[寛文]]年中、御霊神社と改称。
* [[江戸時代]]になると、[[鎌倉景正|鎌倉権五郎]]の権五郎から五郎ノ宮や、圓御霊とも呼ばれた。また境内の南側には[[十一面観音]]を[[本尊]]とする[[神宮寺]]の宝城寺が作られた。
*[[明治]]6年([[1873年]])、[[近代社格制度|郷社]]に列する。
* [[寛文]]年中、御霊神社と改称。
* 明治17年([[1884年]])、人形浄瑠璃の劇場「[[文楽座]]」が境内に開設。「'''御霊文楽座'''」として、近世文楽における黄金期のにぎわいを見せる。
* [[大正宝暦]]153年([[19261753年]])11月に御霊文楽座か)正一位の[[神階]]を授け出火、本殿とともに焼失したれる
* [[明治時代]]に入ると[[神仏分離令]]によって、御霊神社と宝城寺の境内を分けることとなったが、後に宝城寺は廃寺となった。その為に現在、御霊神社の南側にある会社のビルの前に[[鳥居]]だけが残ることとなった。
* [[昭和]]5年([[1930年]])に社殿再建。
* [[1873年]](明治]]6年([[1873年]])、[[近代社格制度|郷社]]に列する。
* 昭和20年([[1945年]])3月14日、[[大阪大空襲]](第1次)により、再び全て焼失した。
* 明治17年([[1884年]](明治17年)、[[人形浄瑠璃]]の劇場「[[文楽座]]」が境内に開設。「'''御霊文楽座'''」として、近世[[文楽]]における黄金期のにぎわいを見せる。
* 昭和32年([[1957年]])、現在の社殿を再興。
* [[1926年]]([[大正]]15年)11月に御霊文楽座から出火、本殿とともに焼失した。
* 昭和34年([[1959年]])、鳥居玉垣を再建。その後、年を追って往時に勝る威容を整備しつつある。
* [[昭和1930年]]5年([[1930年昭和]]5年)に社殿再建。
* 昭和20年([[1945年]](昭和20年)3月14日、第1回[[大阪大空襲]](第1次)により、再び全て焼失した。
* 昭和32年([[1957年]](昭和32年)、現在の社殿を再興。
* 昭和34年([[1959年]](昭和34年)、鳥居玉垣を再建。その後、年を追って往時に勝る威容を整備しつつある。
 
== 御旅所 ==