「ゲオルギオス・パパドプロス」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2018年8月}}
'''ゲオルギオス・パパドプロス'''、'''イェオルヨス・パパドプロス'''([[ギリシャ語]] '''{{lang|el|Γεώργιος Παπαδόπουλος}}''', [[1919年]][[5月5日]] - [[1999年]][[6月27日]])は、[[ギリシャ]]の[[軍人]]、政治家。[[1967年]][[4月21日]]の[[クーデター]]を率い、1974年まで続いた[[ギリシャ軍事政権]]の指導者であった。[[1967年]]の[[アルジェリア]]/[[フランス]]合作映画「[[Z (映画)|Z]]」と[[1974年]]の[[イタリア]]映画「[[ペイネ 愛の世界旅行]]」で痛烈に皮肉られている。
== 前半生 ==
パパドプロスは[[ペロポネソス半島]][[アカイア]]で生まれた。父は[[教師]]を務め、二人の[[兄弟]]がいた。中等教育を受けた後ギリシャ陸軍士官学校に入学し1940年に卒業した。
士官学校の1940年卒業生はすぐさま戦闘を経験することになった。[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]率いる[[イタリア]]が要求していたギリシャ領内におけるイタリア軍の自由通行権を1940年10月28日[[イオアニス・メタクサス]]首相が拒否し、イタリア軍は[[アルバニア]]からギリシャ内に侵攻を開始した。パパドプロスは砲兵部隊の少尉として戦闘に参加した。[[ドイツ軍]]が1941年4月6日に参戦すると情勢はたちどころに悪化し、4月27日には[[アテネ]]がドイツ軍により占領された。[[クレタ島]]での戦闘にもドイツ軍が勝利すると、ギリシャはドイツ、イタリア、[[ブルガリア]]の共同占領下に入った。
枢軸国の占領に反発して、[[ギリシャ共産党]](KKE)に指導される[[ギリシャ人民解放軍]](ELAS)を中心とした[[レジスタンス運動]]が直ちに始まったが、反共主義であったパパドプロスはELASに参加せず[[パトラ]]の傀儡政権の事務所で働き始めた。パトラ食料配給事務所はナチス占領下の村々における[[徴税]]の責任を負っていると同時に、[[反共主義者]]で構成された反ELAS部隊を率いていた。パパドプロスはこの部隊でELASとの戦闘に従事していた。
1944年の始めにパパドプロスは[[イギリス軍]]
パパドプロスは1941年に1人目の妻と結婚した。この結婚はうまく行かず、事実上の別居状態が長い間続くことになった<ref>ギリシャでは離婚に夫婦両者の同意が必要であったためであり、軍事政権期の1970年に特別法を成立させて、妻との離婚が成立している。なお、この法律は直ぐに廃止された。</ref>。
== 第二次世界大
1946年に大尉に昇進し、[[ギリシャ内戦]]の最中の1949年に少佐へ昇格。この間[[軍法会議]]のメンバーとなり、[[ギリシャ共産党]]指導者の[[ニコス・ヴェロヤニス]]に死刑判決を出している。1959年から1964年までは軍の情報機関に勤務し、[[1956年]]には軍の一部が計画した[[クーデター]]に関与するが未遂に終わった。
== 1967年のクーデター ==
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コンスタンティノス国王も当初は[[クーデター]]を追認したが、政権の実権を握ったパパドプロスの専横に嫌気が差し[[12月13日]]に自ら決起した。しかし軍の多数派の支持を得ることが出来ず結局国王は[[ローマ]]へ脱出、パパドプロスは自ら首相に就任し名実共に独裁者となった。
== 独裁の強化と共和制への移行 ==
[[1968年]][[8月13日]]には元軍人で抵抗運動の指導者の一人だった[[アレクサンドロス・パナグリス]]がパパドプロスを暗殺しようとするが、未遂に終わる。これを期に[[秘密警察]]による国民の監視と[[検閲]]などによる言論統制を強化、政権に反対する政治家や共産主義者と思われる者たちを逮捕して国外追放あるいは[[マクロニソス島]]へ収監した。パパドプロスはこれらの圧政を[[共産主義]]の巻き返しに対抗する為だと述べて正当化したが、[[アムネスティ・インターナショナル|アムネスティ]]は軍事政権下で多くの人々が受けた拷問の詳細を報告している。
[[1972年]][[3月21日]]には[[摂政]]を兼任すると共に、[[共和制]]への移行を宣言。[[1973年]][[6月1日]]には[[大統領制]]に移行して自ら[[大統領]]に就任し、文民の{{仮リンク|スピロス・マルケジニス|en|Spyros Markezinis}}を首相に指名して(名目的ながら)[[民政]]移管を実現した。
== 独裁の崩壊と失脚 ==
[[1973年]][[11月17日]]に[[アテネ工科大学]]で独裁政権に反対する学生の蜂起に武力鎮圧を命じ死者80人以上を出したことで陸軍高級将校らの間にパパドプロスへの反感が生まれ、名目的とは言え民政に移行したことでクーデター当初の厳格な軍事独裁から逸脱したと将校らに疑念を持たれ独裁政権の基盤が揺らいだ。
。直後の[[11月25日]]に腹心で秘密警察の長官だった[[ディミトリス・イオニアデス]]がクーデターを起こし、パパドプロスは失脚し自邸に軟禁状態に置かれた。
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民主化後のギリシャで彼は独裁の象徴と見なされている。多くのギリシャ人はパパドプロスを近代ギリシャ史における汚点だと考えているが、支持者もおり政党(ΕΠΕΝ EPEN)を結成したが、現在この政党は解散している。またパパドプロスには[[アメリカ中央情報局|CIA]]とのつながりがあったと言われ、事実[[冷戦]]期の米ソの対立の中でギリシャの軍事政権は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の支援を受けていた。
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==関連項目==▼
▲== 関連項目 ==
* [[ギリシャ内戦]]
* [[ギリシャ軍事政権]]
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