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{{基礎情報 公家
| 氏名 = 藤原懐平
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[平安時代]]中期
| 生誕 = [[天暦]]7年([[953年]])
| 死没 = [[長和]]6年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]([[1017年]][[5月16日]])
| 改名 = 懐遠(初名)→懐平
| 別名 =
| 諡号 =
|戒名=
| 神号 =
|墓所=
| 戒名 =
|官位=[[正二位]]、権[[中納言]]
| 墓所 =
|主君=
| 官位 = [[正二位]]、権[[中納言|権中納言]]
|氏族=[[藤原北家]][[小野宮流]]
| 主君 = [[冷泉天皇]]→[[円融天皇]]→[[花山天皇]]→[[一条天皇]]→[[三条天皇]]
|父母=父:[[藤原斉敏]]、母:[[藤原尹文]]の娘
|兄弟 氏族 = [[藤原高遠|高遠北家]]、'''懐平'''、[[藤原実資|実資小野宮流]]
| 父母 =[[源保光]]の娘、 父:[[藤原佐理斉敏]]の娘<br>、母:[[藤原常種尹文]]
| 兄弟 =''' [[藤原経通高遠|経通高遠]]'''、[[藤原資|資平]]、[[藤原経任|経任]]'''、[[藤原|頼]]、[[藤原資高|資高]]
| 妻 = [[源保光]]娘、[[藤原佐理]]娘、藤原常種娘
|特記事項=
| 子 = '''[[藤原経通|経通]]'''、[[藤原資平|資平]]、[[藤原経任|経任]]、資頼、資高、<br/>源行任室
| 特記事項 =
}}
'''藤原 懐平'''(ふじわら の かねひら)は、[[平安時代]]中期の[[公卿]]。[[参議]]・[[藤原斉敏]]の三男。
 
'''藤原 懐平'''(ふじわら の かねひら)は、[[平安時代]]中期の[[公卿]]。[[藤原北家]][[小野宮流]]、[[参議]]・[[藤原斉敏]]の三男。[[官位]]は[[正二位]]・[[中納言|権中納言]]
==生涯==
祖父・[[藤原実頼|実頼]]が[[関白]]として公卿の筆頭にあり、また父・斉敏が[[参議]]となった[[康保]]4年([[967年]])に、[[元服]]とともに右[[衛門府|衛門]]権少尉として出仕を始め、[[安和]]2年([[969年]])[[花山天皇]]の[[即位]]に伴い[[従五位]]下に[[叙爵]]。その後、実頼・斉敏が相次いで死去したものの、親族の推挽などもあり順調な官途を歩み、[[少納言]]・[[弁官]]・[[修理職|修理大夫]]を経て、[[寛和]]2年([[986年]])に造豊楽院の功により[[従三位]]に任じられ、[[非参議]]ながら公卿となった。
 
== 経歴 ==
ところが、この年に[[花山天皇]]が譲位したことで、摂関も懐平と同じ小野宮家の伯父・[[藤原頼忠|頼忠]]から、別系である九条家の[[藤原兼家]]に移ってしまった。その後は兼家派の人材の急速な昇進の一方で、懐平は長く非参議修理大夫のまま据え置かれ、[[長徳]]元年([[995年]])から翌年にかけて[[疫病]]などにより多くの公卿が亡くなったあとの補任でも、弟で実頼の養子となっていた[[藤原実資|実資]]が参議から権中納言、ついで中納言と昇任された一方、懐平には異動の機会はなかった。
祖父・[[藤原実頼|実頼]]が[[関白]]として公卿の筆頭にあり、また父・斉敏が[[参議]]となった[[康保]]4年([[967年]])に、[[元服]]ととも[[衛門府|衛門]]権少尉]]として出仕を始め、[[安和]]2年([[969年]])[[花山天皇]]の[[即位]]に伴い[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。その後、実頼・斉敏が相次いで死去したものの、親族の推挽などもあり順調な官途を歩み、[[少納言]]・[[弁官]]・[[修理職|修理大夫]]を経て、[[寛和]]2年([[986年]])に造豊楽院の功により[[従三位]]に任じられ、[[非参議]]ながら公卿となった。
 
ところが、この年に[[花山天皇]]が譲位したことで([[寛和の変]])、摂関も懐平と同じ小野宮家の伯父・[[藤原頼忠|頼忠]]から、別系である九条家の[[藤原兼家]]に移ってしまった。その後は兼家派の人材の急速な昇進の一方で、懐平は長く非参議修理大夫のまま据え置かれ、[[長徳]]元年([[995年]])から翌年にかけて[[疫病]]などにより多くの公卿が亡くなったあとの補任でも、弟で実頼の養子となっていた[[藤原実資|実資]]が参議から権中納言、ついで中納言と昇任された一方、懐平には異動の機会はなかった。
長徳4年([[998年]])になって参議に進んだものの、[[播磨国|播磨]][[国司|権守]]、[[美作国|美作]]守を兼官するのみで、いくつかの造宮のほかには上卿となる機会にも乏しかったが、[[寛弘]]4年([[1007年]])[[藤原道綱]]が[[春宮坊|東宮大夫]]から[[東宮傅]]に転じた後任として、[[東宮]]・居貞親王(のちの[[三条天皇]])の東宮大夫に任じられた。この任官により、その後の[[三条天皇]]との密接な関係が作られることとなり、[[寛弘]]8年([[1011年]])の三条天皇の即位とともに[[従二位]]に昇叙。ついで[[長和]]2年([[1013年]])には権中納言、長和4年([[1015年]])正二位に昇進した。
 
長徳4年([[998年]])になって参議に進んだものの、[[播磨国#国司|播磨]][[国司|権守]]、[[美作国#国司|美作]]を兼官するのみで、いくつかの造宮のほかには上卿となる機会にも乏しかったが、[[寛弘]]4年([[1007年]])[[藤原道綱]]が[[春宮坊|東宮大夫]]から[[東宮傅]]に転じた後任として、[[東宮]]・居貞親王(のちの[[三条天皇]])の東宮大夫に任じられた。この任官により、その後の[[三条天皇]]との密接な関係が作られることとなり、[[寛弘]]8年([[1011年]])の三条天皇の即位とともに[[従二位]]に昇叙。ついで[[長和]]2年([[1013年]])には権中納言、長和4年([[1015年]])正二位に昇進した。
三条天皇は公卿筆頭の[[左大臣]]・[[藤原道長]]との不和から、小一条家および小野宮家の人々を側近とし、懐平も小野宮家の一員として小一条家から[[皇后]]となった[[藤原せい子|娍子]]の[[皇后宮職|皇后宮大夫]]となって引き続き近侍した。このため、長和元年([[1012年]])に道長が病気となった際に、それを喜ぶ人々の一人に挙げられた。しかし一方で道長は、娘で三条天皇の中宮となっていた[[藤原妍子|妍子]]の参内の際に、供奉しなかった数名の公卿の中に懐平の名も挙げて、年来親しくしているのにどうして来なかったのだろうと注記しており、懐平が温厚な人柄で敵を作らずに交際している様子もうかがえる。
 
三条天皇は公卿筆頭の[[左大臣]]・[[藤原道長]]との不和から、小一条家および小野宮家の人々を側近とし、懐平も小野宮家の一員として小一条家から[[皇后]]となった[[藤原せい子|娍子]]の[[皇后宮職|皇后宮大夫]]となって引き続き近侍した。このため、長和元年([[1012年]])に道長が病気となった際に、それを喜ぶ人々の一人に挙げられた。しかし一方で道長は、娘で三条天皇の中宮となっていた[[藤原妍子|妍子]]の参内の際に、供奉しなかった数名の公卿の中に懐平の名も挙げて、年来親しくしているのにどうして来なかったのだろうと注記しており、懐平が温厚な人柄で敵を作らずに交際している様子もうかがえる。
 
その後、天皇と道長の関係は、天皇の体調の悪化が進退と絡んで重大な局面を迎え、天皇は[[相撲節会]]の勝敗に皇位の安泰を賭ける思いを懐平に吐露するなど、側近として頼りとするが、この頃から懐平も体調不良に見舞われていたようで、長和5年([[1016年]])三条天皇の退位後に、兼帯していた皇后宮大夫および右衛門督を辞しており、翌年上皇より約1ヶ月前に死去した。享年65。
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*妻:[[藤原佐理]]の娘
**三男:[[藤原経任]](1000-1066) - [[藤原斉信]]の養子
*妻:[[藤原常種]]の娘
**男子:[[藤原資頼 (小野宮流)|藤原資頼]] - 藤原実資の養子
*生母不詳の子女
**男子:[[藤原資高]] - [[藤原高遠]]の養子
**女子:[[源行任]]室 - [[源高房]]の母
 
== 参考文献出典 ==
* 『公卿補任 第一編』[[吉川弘文館]]
* [[土田直鎮]]『日本の歴史 5 王朝の貴族』[[中公文庫]]