「テオドール・ジェリコー」の版間の差分

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フランスへ帰国後、1819年のサロンに問題作『[[メデューズ号の筏]]』を出品し、賛否両論を巻き起こした(この作品については後述)。
 
1820年から1822年には[[イギリス]]に滞在し、1821年には代表作の一つ『{{日本語版にない記事リンク|エプソムの競馬|en|The 1821 Derby at Epsom}}』を描いている。駆ける馬の一瞬の姿を画面に描きとめたこの作品は、印象派の[[エドガー・ドガ]]を先取りするものと評されている。フランスへ帰国後、1822年から1823年にかけて[[精神障害者]]をモデルとした人物画連作を描いている。だが、1823年には[[落馬]]や[[馬車]]の事故などがもとで持病の[[脊椎結核]]が悪化し、1824年1月に死去した<ref>{{Cite book|和書 |author = [[中野京子]] |year = 2016 |title = 中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇 |publisher = [[文藝春秋]] |page = 178 |isbn = 978-4-16-390308-8}}</ref>。死の間際に発したジェリコーの言葉は「まだ、何もしていない」だったと言う。File:Gericaultdeathmask.jpg
 
== メデューズ号の筏 ==
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* 突撃する近衛[[猟騎兵]]士官(1812年)[[ルーヴル美術館]]
* 戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官(1814年)ルーヴル美術館
* [[メデューズ号の筏]](1819年)ルーヴル美術館
* エプソムの競馬(1821年)ルーヴル美術館
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==