「サスキア・ファン・オイレンブルフ」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[画像:Rembrandthuis Amsterdam.jpg|thumb|200px|レンブラントハイス美術館(レンブラントとサスキアの家)]]
サスキアは1612年、現在の[[フリースラント州]]の都市[[レーワルデン]]で、法律家で市長、フラネケル大学の創設者の一人でもあったルンバルドゥス・ファン・オイレンブルフ(Rombertus van Uylenburgh)の八人兄弟の末娘として生まれた<ref>{{Cite book|和書 |author = [[中野京子]] |year = 2016 |title = 中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇 |publisher = [[文藝春秋]] |page = 187 |isbn = 978-4-16-390308-8}}</ref>。サスキア(フリジア語での名前はおそらくSaakje)は母 Sjoukje Ozinga を亡くした5年後に父も亡くし、12歳で孤児となった。彼女は裕福だった両親から多くの遺産を継いでおり、フリースラントの[[ヘット・ビルト]](Het Bildt)の街で、姉 Hiskje とその夫で法律家と市の書記を務める Gerard van Loo に育てられた。しばらくの間はフラネケル大学のあるフリースラントの[[フラネケル]](Franeker)の街で姉 Antje と暮らし、その死後は義理の兄で神学の教授を務めるポーランド人の Johannes Maccovius を手伝った。
 
[[1633年]]、21歳のサスキアは、[[画家]]・[[画商]]でおじにあたるヘンドリック・ファン・オイレンブルフ(ヘンドリック・アイレンブルフ、Hendrick van Uylenburgh)から当時26歳だった画家レンブラントを紹介された。ヘンドリックは1587年頃にレーワルデンで生まれ、両親とともに[[ポーランド]]の[[クラクフ]]に移住したが、[[1625年]]に[[アムステルダム]]に移住し画商を始め[[再洗礼派]]の一員となった。彼は知人となったレンブラントの絵を扱うようになり、[[1631年]]にはライデンからアムステルダムに移ったレンブラントを家に住まわせ、アムステルダムや[[デン・ハーグ|デン・ハーフ]]の市民や[[メノナイト|メノ派信徒]]の顧客にレンブラントの作品を売っていた。1633年[[6月8日]]にレンブラントとサスキアは婚約を交わし、この3日後に羊皮紙に描いたサスキアの肖像が残っている([[ベルリン美術館]]版画素描収集室所蔵)。この年以後サスキアの肖像画が多数描かれるようになった。[[1634年]][[6月22日]]に2人はヘット・ビルトで結婚し、しばらくの間はオイレンブルフの家で暮らした。
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Image:Rembrandt - Rembrandt and Saskia in the Scene of the Prodigal Son - Google Art Project.jpg|放蕩息子に扮したレンブラントとサスキア(1635年頃、ドレスデン国立古典絵画館)
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== 脚注 ==
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== 外部リンク ==