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木戸も日米戦争の焦点となった支那駐兵問題について、撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、同じく陸軍統制派の[[杉山元]]参謀総長や[[東條英機]]陸軍大臣とは連帯関係にあった。
 
=== 第二次世界大戦末期の和平工作 ===
[[第二次世界大戦]]初期こそ[[東條内閣]]を支えたが、戦局が不利になると和平派重臣と提携して東條を見限り、和平工作に傾倒した。東條内閣、小磯内閣の総辞職を経た戦争末期には、[[重光葵]]と2人で終戦工作に取り組み、昭和20年6月には和平方針案の「木戸試案」を作成、[[鈴木貫太郎内閣]]の面々や陸海軍に和平方針を説いて回るなど、和平派の中心人物の一人として動いた。徹底抗戦を主張する陸軍に「木戸試案」を納得させたことで和平への動きは大きく高まることになった。その反面、暗殺計画が持ち上がるほど[[本土決戦]]派から疎まれた木戸は、8月15日未明には、横浜警備隊長であった[[佐々木武雄]]陸軍大尉を隊長として[[横浜高等工業学校]]の学生らによって構成された「国民神風隊」によって、平沼や鈴木と同様に自宅を焼き討ちされた([[宮城事件]])。
{{see also|近衛上奏文}}
[[第二次世界大戦]]初期こそ[[東條内閣]]を支えたが、戦局が不利になると和平派重臣と提携して東條を見限り、和平工作に傾倒した。1945年1月には天皇の求めに応じ各重臣の謁見を手配し、戦争の見通しや人事政策などに関する意見を述べさせたが、この謁見が全て終了したのは2月に連合国側が[[ヤルタ会談#日本側の停戦工作への影響|ヤルタ協定]]を締結したあとであり、結果的に停戦も実現しなかった。
 
[[第二次世界大戦]]初期こそ[[東條内閣]]を支えたが、戦局が不利になると和平派重臣と提携して東條を見限り、和平工作に傾倒した。東條内閣、小磯内閣の総辞職を経た戦争末期には、[[重光葵]]と2人で終戦工作に取り組み、昭和20年6月には和平方針案の「木戸試案」を作成、[[鈴木貫太郎内閣]]の面々や陸海軍に和平方針を説いて回るなど、和平派の中心人物の一人として動いた。徹底抗戦を主張する陸軍に「木戸試案」を納得させたことで和平への動きは大きく高まることになった。その反面、暗殺計画が持ち上がるほど[[本土決戦]]派から疎まれた木戸は、8月15日未明には、横浜警備隊長であった[[佐々木武雄]]陸軍大尉を隊長として[[横浜高等工業学校]]の学生らによって構成された「国民神風隊」によって、平沼や鈴木と同様に自宅を焼き討ちされた([[宮城事件]])。
 
=== 東京裁判 ===