「幸徳秋水」の版間の差分

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[[高知県]][[幡多郡]][[中村町 (高知県)|中村町]](現在の高知県[[四万十市]])に生まれる。幸徳家は、[[酒造]]業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、[[陰陽道]]をよくする[[陰陽師]]の家であった。尚、妻[[師岡千代子]]の父は[[幕末]]の[[尊王攘夷運動]]で活躍し、[[足利三代木像梟首事件]]の[[首謀者]]とされている[[国学者]]の[[師岡正胤]]である。
 
9歳の時、儒学者・[[木戸明]]の[[修明舎]]に入り、[[四書五経]]等を学ぶ。11歳で旧制中村中学校(現:[[高知県立中村中学校・高等学校]])に進学するも、台風で校舎が全壊しなかなか再建されず退学。<br>
[[1887年]](明治20年)に上京し、同郷の[[中江兆民]]の門弟となる。新聞記者を目指し、『[[自由新聞]]』([[板垣退助]]社長。[[小泉策太郎]]と親友に)等に勤めた。同年に発布された[[保安条例]]で[[大阪]]に移った兆民は[[角藤定憲]]に芝居公演の企画を提唱し、角藤は[[大日本壮士改良演劇会]]を旗揚げ、所謂壮士芝居の先駆となる。その時の演目の一つ「勤王美(義とも)談上野曙」は兆民が秋水に執筆を依頼したといわれる<ref>[[松本克平 (俳優)|松本克平]]『日本社会主義演劇史 明治大正篇』([[筑摩書房]],1975)</ref>。
 
[[1898年]](明治31年)より[[黒岩涙香]]の創刊した『[[萬朝報]]』記者となる。萬朝報は日本に於ける[[ゴシップ]][[報道]]の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルを追求、「蓄妾実例」といった[[プライバシー]]を暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。[[1899年]](明治32年)末には[[東京]]の新聞中発行部数一位に達し、最大発行部数は30万部となった。又一時淡紅色の紙を用いた為「赤新聞」とも呼ばれた。