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[[富山県]][[高岡市]]出身。父は富山県会議長の[[堀田勝文]]、母は[[大正]]年間に富山県で初めて保育所を創設した[[堀田くに]]。経済学者で前・慶應義塾大学商学部教授の[[堀田一善]]は甥にあたる。生家は[[伏木港]]の[[廻船問屋]]であり、当時の[[北前船]]の日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた<ref>北前船の廻船問屋としての栄光と没落は小説『鶴のいた庭』に描かれている。</ref>。
 
[[1936年]]、[[石川県立金沢錦丘中学校・高等学校|旧制金沢二中]]から1936年に[[慶應義塾大学]]政治科予科に進学し、<br>
[[1940年]]、[[文学部]]仏文科に移り卒業。大学時代は詩を書き、雑誌『[[批評 (第二次)|批評]]』で活躍、その方面で知られるようになる。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで敗戦を迎える。敗戦直後、上海現地の日文新聞「改造日報」に評論「希望について」を発表。同年12月に[[中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会]]に留用される。翌年12月まで留用生活を送る(留用体験について、陳童君『堀田善衛の敗戦後文学論ー「中国」表象と戦後日本』鼎書房、2017年)参照。
 
[[1947年]]引揚げ、世界日報社に勤めるが、会社は[[1948年]]末に解散する。この頃は詩作や翻訳業を多く手がけていた。[[アガサ・クリスティ]]の『[[白昼の悪魔]]』の最初の邦訳は堀田によるものである。
 
[[1948年]]処女作である連作小説『祖国喪失』の第1章「波の下」を発表、戦後の作家生活を始める。<br>
[[1950年]][[10月23日]]に[[品川駅]]でかっぱらいをして逮捕されたと報じられたが<ref>[[1950年]][[10月24日]]火曜付 「夕刊読売」</ref>、『[[高見順日記]]』によると、酔った上でのいたずらだったらしい。<!--ここに記してあったのは独自研究。--> <br>
[[1951年]]「中央公論」に話題作「広場の孤独」を発表、同作で当年度下半期の芥川賞受賞。また、同時期に発表した短編小説「漢奸」(「文学界」1951年9月)も受賞作の対象となっていた。
 
[[1953年]]国共内戦期の中国を舞台にした長編小説『歴史』を新潮社から刊行。<br>
[[1955年]]「南京事件」をテーマとした長編小説『時間』を新潮社から刊行。
 
[[1956年]]、アジア作家会議に出席のために[[インド]]を訪問、この経験を[[岩波新書]]の『インドで考えたこと』にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍した。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心主義とは異なる国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。この間、[[1959年]]には[[アジア・アフリカ作家会議]]日本評議会の事務局長に就任。[[モスクワ]]で[[パキスタン]]の詩人[[ファイズ・アハマド・ファイズ]]と知り合ったのは[[1960年代]]である。[[ジャン=ポール・サルトル]]とも親交があった。日本評議会が中ソ対立の影響で瓦解したあと、[[1974年]]に結成された日本アジア・アフリカ作家会議でも初代の事務局長を務めた。また、「[[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]」の発足の呼びかけ人でもあり、脱走米兵を自宅に匿ったこともあった。[[マルクス主義]]には賛同せず[[日本共産党]]などの党派左翼でもなかったが、政治的には戦後日本を代表する進歩派知識人であった。
 
[[1977年]]の『[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]』完結後、[[スペイン]]に居を構え、以後はスペインと日本とを往復する。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。また、<br>
[[1980年代]]後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを開始。同シリーズの執筆は堀田の死まで続けられ、没後に『天上大風』として1冊にまとめられた。
 
1998年、[[脳梗塞]]のため[[横浜市]]の病院で死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)25頁</ref><ref>大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)208頁</ref>。