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== 解説 ==
=== 原曲「丸の内音頭」 ===
もともとは「[[丸の内]]音頭」という曲名で[[1932年]]([[昭和]]7年)に制作され、[[日比谷公園]]での[[盆踊り]]大会で披露された。[[関東大震災]]で壊滅した東京も同年7月の市町村合併で人口約530万の世界第2位の都市になり、有楽町の商店街の旦那衆(日比谷[[松本楼]]の小坂光雄、更科の藤村源三郎、富可川の井上忠次郎、都亭の岩佐善三郎、並木の森平四郎)は不況を吹き飛ばす景気づけとして、それまでなかった都会の盆踊りを企画し、[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]に音頭の作成を依頼した<ref name=karube/><ref>『雑学王話のネタ400連発』河出書房新社, 2005/01/25</ref>。作詞を[[西条八十]]、作曲を[[中山晋平]]が手掛け、歌は日本橋葭町の芸者だった[[藤本二三吉]](当時は葭町二三吉)と、民謡歌手の[[三島一声]]がそれぞれ吹き込んだ<ref name=karube>[http://www.bus.nihon-u.ac.jp/laboratory/pdf/OsakabeYoshinori31.pdf 東京音頭の創出と影響]刑部芳則『商学研究』第31号、日本大学商学部商学研究所 1990</ref>。丸の内音頭会長となった更科の藤村が[[警視庁]]に日比谷公園での盆踊り開催を申請し、同年8月15日から5日間行われた<ref name=karube/>。揃いの浴衣さえ用意すれば誰でも参加でき、同月18日には丸の内音頭がラジオで全国に初披露された<ref name=karube/>。[[永井荷風]]によると、その盆踊り大会は[[日比谷]]の[[百貨店]]([[美松百貨店]])の広告であり、その百貨店で浴衣を購入しなければ参加できなかったという<ref>永井荷風『[[ぼく東綺譚|墨東綺譚]]』岩波書店、1947年、168頁。</ref><ref>「丸の内飲食店組合」の小坂光雄([[松本廊]]社長)ら経営者が銭湯での風呂場談義で考えたという。</ref>。歌詞には丸の内、三宅坂、数寄屋橋などの地名が織り込まれている<ref>「時代の証言者・首都のレストラン・小坂哲瑯(4)・「東京音頭」原型は「丸の内」読売新聞 2013年4月20日10面</ref>。作詞した西条は、「この音頭が揃い手拭、揃い浴衣ではじめて踊られたあの日比谷公園のすずしい月の夜を、わたしは永く忘れないであろう」と述べている<ref name=karube/>。
 
その後、レコード会社が「隅田」「武蔵野」などを入れて東京一円のご当地ソングとして売り出したという。
「丸の内音頭」のレコードは[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]から発売され、A面が[[藤本二三吉]]、B面は[[三島一声]]によって歌われた。二三吉はこの曲を最後に[[日本コロムビア|コロムビア]]に移籍した。
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=== ヒットへの経緯 ===
丸の内音頭の人気を感じたビクターは、それを全国的に流行させるため、[[1933年]]7月「東京音頭」と改題して発売<ref name=karube/>、当時の東京市民すべてが歌えるように改題・改詞された。生まれ故郷の東京に盆踊りを作ることが念願だったという西条は「どうせ書くならひとつ東京全市を賑やかに踊り狂わせる、たとえば阿波の阿呆踊のようなものを書いてみたい」と思ったと回想している<ref name=karube/>。全十番から成る東京音頭は[[小唄勝太郎]]と[[三島一声]]の歌唱でレコード化され、卑猥さを連想させる歌詞もあって爆発的に流行した。勝太郎の一連のヒット曲に多いハァー(ハー小唄)の歌いだしの、勝太郎の力強い、景気のよい歌声は日本中に響き渡った。レコビクタ社員は各地盆踊に電気蓄音機を持って行き櫓のげは発売当時だけ120万枚<ref>1952年時点踊り方を指導しビクター発表。[[丘灯至夫|丘十四夫]]『歌暦五十年』音楽譜出版社、1954年。</ref><ref>NHK「クイズ日本人質問」グループ『NHKテビ クイズ 日本人の質問 3』NHK出版、1996年、181頁。ISBN 4140160845</ref>に達したという。勝太郎にとコード店でも踊っては手売りするなど宣伝に務め盆踊りの季節が過ぎても人気は衰えず、10月の[[島の娘早慶戦]]」「[[明日はお立ちか野球]]」「では、入場券を求める観覧客が徹夜で[[さくら音頭神宮球場]]に並んだが、大島おけさ東京音頭「勝太郎子守唄」などと並ぶ代表曲となっで夜を明かしという<ref name=karube/>。翌1934年の日比谷の盆踊りでは揃いの浴衣の踊り手500-600人が参加し、見物客は3000人に及んだ<ref name=karube/>
 
東京の見どころを歌った「東京音頭」は東京復興および経済振興の歌として受容され、東京だけでなく全国でヒットし<ref name=karube/>、レコードの売り上げは発売当時だけで120万枚<ref>1952年時点、ビクター発表。[[丘灯至夫|丘十四夫]]『歌暦五十年』全音楽譜出版社、1954年。</ref><ref>NHK「クイズ日本人の質問」グループ『NHKテレビ クイズ 日本人の質問 3』NHK出版、1996年、181頁。ISBN 4140160845</ref>に達したという。勝太郎にとって、「[[島の娘]]」「[[明日はお立ちか]]」「[[さくら音頭]]」「大島おけさ」「勝太郎子守唄」などと並ぶ代表曲となった。後年、勝太郎が[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]に移籍してからは、かつて勝太郎と犬猿の仲といわれた[[市丸]]、[[喜久丸]]、[[鈴木正夫]]によって再吹き込みされた。夜通し続いたことで、西條や中山も眠れずに困ったこともあった<ref>塩澤実信『昭和のすたるじい 流行歌』第三文明社、1991年、55頁</ref>ほどだったという。また、同じ年に流行した[[ヨーヨー]]とともに紹介されることも多い。
 
その後も時代を越えたロングヒットとなり、総売上枚数は正確には不明であるが、1971年の段階で発売当時の20倍以上、枚数にして2000万枚以上を売り上げているともいわれる<ref>紀田順一郎、間羊太郎『記録の百科事典 日本一編』竹内書店、1971年、198頁</ref>。