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また、甲斐南部には駿河と接した河内領があり、河内領主で武田御一門衆の穴山氏は[[穴山信友|信友]]・[[穴山信君|信君]]期に武田宗家と姻戚関係をもち、武田・今川間の甲駿同盟を取次し天文21年の義信と今川義元娘の婚姻も仲介している。穴山氏は武田宗家に従属しつつも今川氏と深い関係にあったが、義信以降の永禄11年末に武田氏は今川領国への侵攻を開始し([[駿河侵攻]])、穴山氏は軍事行動を主導している。
 
義信事件における穴山氏の立場は不明であるが、永禄9年12月5日に当主信君の弟にあたる[[穴山信嘉|穴山彦八郎]](信嘉、信邦)が[[身延山久遠寺]]塔頭において自害しており{{Refnest|group="注釈"|『[[甲斐国志]]』、高野山成慶院「武田家過去帳」に拠る。なお、穴山彦八郎の実名は『国志』では「信邦」としているが、高野山成慶院「檀那御寄進状并消息」から「信嘉」であることが確認される。}}、義信事件に際して穴山氏では当主信君が信玄派に属し、弟の彦八郎が義信派に属した内訌が生じていた可能性が考えられている<ref>{{Cite book|和書|author=平山優|title=穴山武田氏|series=中世武士選書5|publisher=戎光祥出版社|year=2011}}</ref>。
 
== 武田義信が登場する作品 ==