「八丁味噌」の版間の差分

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}}</ref>。
 
岡崎出身の武将、[[徳川家康]]の健康と長寿と支えたのは「[[麦飯]]と豆味噌」だったと言われ<ref>{{citeCite news
|url author =https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK24034_U2A920C1000000?channel=DF130120166104&style=1 礒部道生
| title = 家康、元就の長寿を支えた食生活の秘密 戦国武将の長寿食
| publishernewspaper = [[日本経済新聞]]
| date = 2012-9-26
| url = https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK24034_U2A920C1000000?channel=DF130120166104&style=1
| accessdate = 2018-3-31
}}</ref>、戦国時代には岡崎で豆味噌が製造されていたものと考えられる。カクキューの早川家が1878年に[[愛知県庁]]に提出した上申書には同家の創業は「1645年([[正保]]2年)」と記されているが<ref name="shinpen-3-1265-1267" />、1655年([[明暦]]元年)に[[朝鮮通信使]]が岡崎に宿泊した折に伝えた味噌の製法が八丁味噌の起源となったという説も存在する<ref>『おかざきしんぶん』第5号、1981年4月30日、10面、「地場産業〝八丁味噌〟」。</ref>。
 
八丁味噌は「[[三河]]味噌」や「[[三州]]味噌」とも呼ばれ、[[江戸時代]]は江戸へ海運の便で出荷されていた。そして[[廻船]]の帰り荷として関東・東北方面から大量の[[大豆]]が買い付けられた<ref>『[[#新編近世3|新編 岡崎市史 近世3]]』 1268-1269頁。</ref>。徳川家康の廟所である[[日光東照宮]]の造営にあたっては、[[宮大工]]たちの食料に岡崎の八丁味噌が用いられたと言われている<ref>『[[#みそ文化誌|みそ文化誌]]』 242頁。</ref>。