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'''松田 竹千代'''(まつだ たけちよ、明治21年(1888年)2月2日 - 昭和55年(1980年)12月1日)は、政治家。正三位勲一等。
'''松田 竹千代'''(まつだ たけちよ、明治21年(1888年)2月2日 - 昭和55年(1980年)12月1日)は、戦前から戦後を通じて活躍した日本の保守政治家(男性)である。明治35年(1902年)14歳で単身渡米し、苦学して明治44年(1911年)ニューヨーク大学を卒業し、大正3年(1914年)帰国後社会福祉施設・有隣園を手伝うことで社会事業家として出発した。その後昭和3年(1928年)立憲民政党より衆議院議員総選挙に出馬し、初当選を果たし、以後昭和47年(1972年)に政界を引退するまで、通算12回当選し、この間、郵政大臣、文部大臣、衆議院議長を歴任し、昭和55年(1980年)逝去。晩年はベトナム孤児福祉教育財団を設立し、孤児救済に尽力した。正三位勲一等。ニックネームは'''テキサス無宿'''。
 
== 来歴・人物 ==
[[大阪府]][[泉南郡]]出身。14歳で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]西部の荒野を夢見て単身渡米し、各地を放浪した果てに[[ニューヨーク大学]]に入学。卒業後に帰国すると、[[日本]]の近代[[スポーツ]]の先駆者・[[大森兵蔵]]の妻・安仁子(旧名・Annie Shepley、日本に帰化し安仁子と名乗る<ref>『講談社 日本人名大事典』、384頁。</ref>)の運営する社会福祉施設・有隣園を手伝う<ref name="日本人名大事典">『講談社 日本人名大事典』、1778頁。</ref>。明治35年(1902年)14歳で単身渡米し、苦学して明治44年(1911年)ニューヨーク大学を卒業し、大正3年(1914年)帰国後社会福祉施設・有隣園を手伝うことで社会事業家となった。その後昭和3年(1928年)に最初の[[普通選挙]]だった[[第16回衆議院議員総選挙]]で[[立憲民政党]]公認で立候補し初当選。民政党では[[町田忠治]]直系の政治家として知られ、一方で同じ民政党所属の[[三木武吉]]の知遇を得た。元来[[自由主義|自由主義的]]な政治家であり、昭和14年([[1939年]])には[[クリスチャン]]の[[賀川豊彦]]やのちに[[内閣総理大臣]]となる[[三木武夫]]らとともに'''日米同志会'''を結成し[[東京府]][[東京市]][[麹町区]](現・[[東京都]][[千代田区]])の[[日比谷公会堂]]で'''日米親善国民大会'''を開催したが<ref name="政党と派閥">『政党と派閥』、31-32頁。</ref>、戦時中は軍部と妥協し昭和18年([[1943年]])[[6月17日]]の翼賛政治会の代議士会で[[鳩山一郎]]と[[中野正剛]]の演説に対し「それではまるで反戦演説じゃないか。やるなら鳩山先生の如くやれ」と鳩山は支持しながら中野には反感をむき出しにして叫んだ。そのため戦後は[[公職追放]]。追放解除後は三木と共に[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]に復帰、鳩山派の一員として活動。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]結成後は[[春秋会|河野派 → 森清派 → 園田グループ]]に所属したが、その後[[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]]に入った。[[ハト派]]で[[野党]]との話し合いを重視する姿勢をとり、温厚そのものの外見だったが、思想や見た目とは裏腹に無類のきかん気で、妥協を拒む性格でもあった。また[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]時代は[[日本教職員組合|日教組]]の集会に出席するなど、自民党の立場にとらわれない姿勢をとった。立憲民政党より衆議院議員総選挙に出馬し、初当選を果たして以後、昭和47年(1972年)に政界を引退するまで、通算12回当選し、この間、郵政大臣、文部大臣、衆議院議長を歴任し、昭和55年(1980年)逝去。妻は大森兵蔵の姪・澄江<ref name="日本人名大事典" />。次女の妙子は[[社会福祉]]事業家。孫娘の佐藤玖美(妙子の次女)は[[実業家]]。
[[大阪府]][[泉南郡]]出身。14歳で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]西部の荒野を夢見て単身渡米し、各地を放浪した果てに[[ニューヨーク大学]]に入学。卒業後に帰国すると、[[日本]]の近代[[スポーツ]]の先駆者・[[大森兵蔵]]の妻・安仁子(旧名・Annie Shepley、日本に帰化し安仁子と名乗る<ref>『講談社 日本人名大事典』、384頁。</ref>)の運営する社会福祉施設・有隣園を手伝う<ref name="日本人名大事典">『講談社 日本人名大事典』、1778頁。</ref>。
 
最初の[[普通選挙]]だった[[第16回衆議院議員総選挙]]で[[立憲民政党]]公認で立候補し当選。民政党では[[町田忠治]]直系の政治家として知られ、一方で同じ民政党所属の[[三木武吉]]の知遇を得た。元来[[自由主義|リベラル]]な政治家であり、昭和14年([[1939年]])には[[クリスチャン]]の[[賀川豊彦]]やのちに[[内閣総理大臣]]となる[[三木武夫]]らとともに'''日米同志会'''を結成し[[東京府]][[東京市]][[麹町区]](現・[[東京都]][[千代田区]])の[[日比谷公会堂]]で'''日米親善国民大会'''を開催したが<ref name="政党と派閥">『政党と派閥』、31-32頁。</ref>、戦時中は軍部と妥協し昭和18年([[1943年]])[[6月17日]]の翼賛政治会の代議士会で[[鳩山一郎]]と[[中野正剛]]の演説に対し「それではまるで反戦演説じゃないか。やるなら鳩山先生の如くやれ」と鳩山は支持しながら中野には反感をむき出しにして叫んだ。
 
そのため戦後は[[公職追放]]。追放解除後は三木と共に[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]に復帰、鳩山派の一員として活動。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]結成後は[[春秋会|河野派 → 森清派 → 園田グループ]]に所属したが、その後[[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]]に入った。
 
[[ハト派]]で[[野党]]との話し合いを重視する姿勢をとり、温厚そのものの外見だったが、思想や見た目とは裏腹に無類のきかん気で、妥協を拒む性格でもあった。また[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]時代は[[日本教職員組合|日教組]]の集会に出席するなど、自民党の立場にとらわれない姿勢をとった。
 
妻は大森兵蔵の姪・澄江<ref name="日本人名大事典"/>。次女の妙子は[[社会福祉]]事業家。孫娘の佐藤玖美(妙子の次女)は[[実業家]]。
 
== 略歴 ==