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[[File:First Saudi State Big.png|thumb|300px|第一次サウード王国の勢力拡大]]
[[1517年]]、マムルーク朝を滅ぼした[[オスマン帝国]]がメッカの支配権を握り、[[スンナ派]]イスラム教徒の盟主となった。その後はオスマン帝国の支配が続いていたが、[[1802年]]に[[ナジュド]]の豪族サウード家が[[ワッハーブ派]]を奉じて建国した[[第一次サウード王国]]がメッカとマディーナを占領し、当時メッカにあった聖者の廟などを破壊した。第一次サウード王国はまた、エジプトやシリアからやってくる巡礼団が華美に流れ堕落しているとして攻撃し、シリアからのものは入域さえさせなかった。一方、他地域からの巡礼団は歓迎され、この時期のメッカの厳格な戒律を守る雰囲気に影響されて、[[スマトラ島]]南部のミナンカバウ地方で[[パドリ戦争]]と呼ばれる[[宗教戦争]]が起きる<ref>「世界の歴史 第13巻 アジアの多島海」p257 永積昭 昭和52年11月20日第1刷</ref>など、イスラム圏各地に影響を与えた。しかしイスラムの盟主をもって任じるオスマン帝国の命を受けたエジプト総督[[ムハンマド・アリー]]は[[1813年]]にメッカを攻略しヒジャーズをエジプトの治下に置いた。しかし[[1840年]]に第二次[[エジプト・トルコ戦争]]の敗北によってこれを放棄させられ、再びメッカはオスマン帝国領となった。19世紀中期以降は[[鉄道]]や[[汽船]]といった新しい交通機関によって旅行期間が大幅に短縮され、これによって巡礼者の数は増加した。
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=== サウジアラビア時代 ===