「国鉄千葉動力車労働組合」の版間の差分

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動労千葉の前身である千葉地本は、少なくとも1972年に2月以降、本部と行動することをしなくなっていった。その理由は、「70春闘勝利関東ブロック総決起集会」などにおける暴力行為があったとされる。
 
また、千葉地本による[[三里塚闘争]]へのかかわりや[[水本事件]]への取り組みも、動労本部と千葉地本との亀裂を深化させた。
 
[[三里塚闘争]]([[成田空港問題]])での[[日本の新左翼|新左翼]]による過激化に対し[[1979年]](昭和54年)に[[国鉄動力車労働組合]](動労)が「三里塚闘争との絶縁」を執行部として決定、これに対し動労千葉地本が反発して闘争継続を決定したため執行部側が地本側の権利停止という事態に至る。これに[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]が少なからざる影響力を持っていた動労執行部と[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]の影響下にあった千葉地本のセクト的対立や動労内部での派閥争いも絡み、ついに[[3月30日]]に動労は千葉地本執行部を除名・対する千葉地本側も動労から分離して独自の組合を結成した。勢力は、公称OBも含め約600人前後で、千葉県内では[[船橋市]]・[[勝浦市]]などで[地方議員を輩出している。